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【歴史雑記】楚漢戦争マイナー武将列伝:郡守篇(中篇)

 歴史雑記022
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前言

 さて、仕事がもう本当に忙しく、ストレスもあって体調も優れないのでずいぶん間が空いてしまったが、ようやく続きが書けたので公開することとする。
 今回は南陽郡の郡守・呂齮と、三川郡の郡守・李由(李斯の長男)をとりあげる……つもりだったが長くなったので呂齮だけになってしましたすいません……。

秦の絶対防衛ライン

 さて、手元の地図を繰ってもらえばお分かりになると思うが(一応ヘッダにもあげた)、このふたつの郡は、前篇でとりあげた諸郡に比べ、秦の本拠地である関中に近く、郡が置かれた時期も早い。
 さらに、反乱を起こした者たちの目的は戦国後期への回帰、つまり旧六国の復興であるとともに、六国を滅国に追い込んだ秦への復讐──要するに関中になだれ込んで咸陽を落とし、二世皇帝を殺して秦を滅国に追い込むことであっただろうと想像される。
 旧六国方面から関中へ入るとするならば、東の函谷関、あるいは南の武関を突破しなければならない。
 二世二年には周文(周章)が早くも函谷関を一度は抜いているが、これは章邯率いる秦軍によって撃滅され、以降章邯を中心とする秦将の活躍で陳勝の張楚政権はわずか半年間で没落する。
 張楚の段階で既に函谷関と武関の両方を抜くという戦略が企図されていたが、これは項梁によって継承され、懐王政権下でも基本的な戦略として二方面作戦が展開されていく。
 それに対抗し、先述の二郡の防衛を担ったのが呂齮と李由であった。
 秦の視点から言い換えるならば、旧六国での蜂起を鎮圧するというのが理想ではあるが、本拠地を守るために突破を許してはならない絶対防衛ラインが函谷関と武関であり、ここに敵を到達させないためにも南陽郡と三川郡というふたつの郡は重要であった。

張楚政権における武関方面派兵

 二世皇帝元年、たちまちのうちに勢力を膨れ上がらせた陳勝は陳に入ると各方面に派兵を行なった。
 これらの記事は『史記』中に散在しているが、函谷関を破った周文、陳勝の右腕であった呉広、陳人の武臣、汝陰人鄧宗、またこれに先んじて符離人葛嬰らが派遣されている。
 これらはそれぞれ派遣時期(二世元年八月頃まで)に記述があるのだが、陳勝死後にかけられた記事から、張楚が南陽郡及び武関突破のために派兵した軍があったことがわかる。

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