呂后は呂不韋一族か?
歴史雑記029
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前言
今回は呂氏、すなわち、のちに漢の高祖・劉邦の妃として「呂后」と呼ばれることになる呂雉の出た一族について、いささか思うところを記してみたいと思う。
まず、『史記』に記される呂氏の出自としては、呂后の父・呂公について、高祖本紀に見える以下の出だしで始まる挿話のみしか材料がない。
単父人呂公善沛令、避仇従之客、因家沛焉。
このあとは、よく知られた「実際は一銭もない劉邦が一万銭の祝儀を持ってきたと偽って宴に参加し、呂公に認められて呂雉を娶る」という展開になる。
呂公女乃呂后也、生孝恵帝・魯元公主。
このくだりの末尾は上記のように締められているから、高祖本紀に複数見える、ある種の予言的な説話と読むこともできよう。そして、この設話では呂公が単父(山東省の西南部)から沛県(江蘇省の西北部)に移り住んだこと、沛県の県令と親しかったことしかわからない。
この県令が劉邦の決起時に殺された人物と同じかどうかは記述がないが、呂氏が移住者であり、それなりの社会階層に属していたというのが『史記』高祖本紀の当該部分における歴史認識と言えるだろう。
郭沫若の呂不韋一族説
さて、この呂氏について、呂不韋の一族であると唱えたとされるのが郭沫若である(『十批判書』におさめる「呂不韋与秦王政的批判」)。
郭沫若の主張を簡単にまとめると、以下のようになる。
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