『史記』の編者問題
歴史雑記071
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はじめに
義務教育では『史記』の編者は司馬遷という風に教えられる。
少し気の利いた先生なら、父親の司馬談との二代にわたる事業だよというようなことを喋るかもしれない。
しかし、実際のところ話はそう単純ではなく、現行『史記』の成り立ちについては非常に複雑な議論の蓄積がある。
筆者個人としては、個人名を出さずに「『史記』編者」と書くか、あるいは「『史記』の記述では」、というような含みのある言い回しを用いることが多いのだが、今回は、なぜそのような表現をするのか──『史記』というテキストの持つある種の揺れについて書こうと思う。
後筆代表・褚少孫先生
一般にはあまり知られていないが、現行『史記』には、明らかに司馬遷の没後のことを記した記事がある。
それらの個別の著者は必ずしも明らかではないが、前漢の末ごろの人である褚少孫の加筆部分は「褚先生曰」と書いてあるのでわかりやすい。
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