花いちもんめが怖かった
小学1年生の頃、休み時間に流行った「花いちもんめ」が苦手だった。選ばれないのも、選ぶのも。
だから周りの友達が次々選ばれて、たったひとりになる瞬間は最悪だ。選ばれなかった悲しみを背負いながら、誰かを選ぶ重圧まで抱えることになる。
でもそれ以上に怖かったのは、友達をひとり残して選ばれてしまう場面だった。あの苦しみを味わわせるくらいなら……。
気づけば「どうか私を選ばないで」と強く祈っていた。どちらにしろ、つらいのに。
*
世界には苦しみの爆弾みたいなものがあって、自分が抱えたときはそのまま爆発するのを待つか、誰かを犠牲にする覚悟で手渡すかの2択。
私はそんな究極の世界観の中で、生きてしまっているのかもしれない。
頼み事をされたとき断るのが苦手なのは、断った瞬間に爆発するのを恐れているから。
苦しみを抱えたときなかなか人に話せないのは、相手に爆弾を抱えさせることになるのではと怖いから。
もちろん、私が爆弾だと思い込んでいるものは、相手にとってはただのボールかもしれないし、そんな緊迫した状況ではないかもしれない。
でももし、そうだったなら。
手遅れになったら困るから、いつも「爆弾の可能性がある」と気を引き締めてしまう。
「言えばいいじゃん」と言われるのが昔から嫌なのは、「助かりたいなら人に爆弾渡せばいいじゃん」と言われているような気がしてしまうからなのかもしれない。
きっと私は、ゾンビまみれの世界なら、名前も知らない誰かを庇って倒れちゃうキャラクターで、「生贄を差し出せ」と言われたら、悩んだ末自ら生贄になっちゃうような人間なんだろう。
でもそれは、弱さなのだろうか?
それでも今生きてる私って、不死身?笑
*
槇原敬之さんの『どんなときも』の歌詞に、こんなフレーズがある。
自分を大切にするとか、自分の人生を歩むとか、それらを意識しはじめてから、ぶつかり続けている壁がたぶん、ここにある気がする。
自分の気持ちを大切にするには、たとえ爆弾になる可能性があっても出してみる必要があるし、どんなに言葉に気を遣ったって、知らずに誰かを苦しめる可能性がある。
それでも私は、自分でいたいのだろうか?
その答えは、まだ出ない。
だけどもし、こんな不思議な世界観に少しでも共感してくれる人がいるのなら、願っていたい。
どうかその目に見えない優しさが
報われますように。
どうか爆弾の衝撃が
これ以上あなたを壊しませんように。
そして誰も爆弾の恐怖に怯えなくていい
第3の選択肢が見つかりますように。
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