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【カサンドラ】25. 堕胎

決定的な溝を作ってしまったと思ったものの
翌日直樹が泣いて電話をしてきて、関係を終わらせるきっかけを失った。
あんなことを言っても、私のことが好きなのだと確信したせいで
私は祐介の時と同じように酷い暴言を吐く女になっていった。
直樹は私が吐き捨てる言葉を、歯を食いしばるようにして飲み込みながら
毎晩私の仕事先まで車で迎えに来た。
互いに誤魔化し続ける日々を過ごしていたものの、私と直樹の同級生の男性との関係を疑われたことをきっかけに、私から別れを切り出した。

直樹の同級生とは、直樹と付き合い出した頃から精神面で頼っており、
これからも変わらず彼がいるから、何も問題ないと思っていたのだけど、
職場から電車で帰るようになり、毎日かかってきた電話がなくなって一ヵ月もすると、
私が直樹に縋りつく関係が始まった。
突然の立場逆転。これが私の恋愛パターンになっていた。
直樹はまるで仕返しのように横暴に振る舞うようになり、
気に入らないと手に持っているものを何でも私に投げつけた。
重いZippoが私の頭に当たると態度を一変して謝罪を始め、昔のような関係に戻ったと錯覚できる。
その一瞬の安らぎを求めて、私は自分のできることを全てした。
直樹が会いたいという夜は、何をしている時でもすぐに着替えて化粧をし
ホテルに行くだけのために、自分の車を出して迎えに行った。
みるみるうちに自分を惨めな女に追い詰めていく、ある春の夜
私は月のものが来ていないことに気付いた。

ステロイドを飲んでいる関係上ピルを使えない期間があったために、妊娠してしまったと思い込み、酷い吐き気と戦いながら、検査を受けるまでの期間、私は女としてあるまじきことを考えていた。


家族が欲しいなんて、
一度も望んだことがない。
なぜ世の女たちは、結婚や妊娠がそんなに嬉しいのだろうか。
自分の家に自分以外の人間がいるということに、なぜ嫌悪を感じないのだろうか。
私にはひとつも理解ができず、
家庭に入ってしまった友達に対して心底憐憫の目を向けていた。
生まれて間もない、涎に塗れた赤ん坊の、何が可愛いというのか。
少し成長すればママ、ママ、と駄々をこね、大声を上げて走り回り、
叱られてわんわん泣き叫んだかと思えば、機嫌を直してまた騒ぎだす。
スーパーのお菓子売り場やショッピングモールで、
湧いて来る感情そのまま、幼児期を謳歌する子供たちを見ると
私の中に住む少女が、指を咥えて嫉妬する。

この身体の中に、その蕾があるのかと思うと吐き気がするほどの嫌悪感に襲われ
自らの手で掻き出してしまいたい衝動に駆られた。

彼との間での出来事である確証はなかったが、浅墓な期待を込めて直樹に電話をした。
少し雑談を交わした後、まだ事実になっていない不安を言葉にすると、数秒の間を空け"彼女ができたから"という答えが返ってきた。
その後何度直樹の番号にかけても、
受話器の向こうから私の着信を拒否する音が延々と流れた。
数日後、同意書の郵送先住所と口座番号を教えて欲しいというメールが
直樹の母親を装った低レベルな敬語で届いた。


陰性だった。
検査結果を聞いて、全身の力が抜けるほど安堵した理由は、
自分の身体を傷付けずに済んだから、それだけだった。

女達は妊娠を待ち望み、痛みを伴う治療を重ねてまでその時を待つ。
人間という生き物に対する私の情愛は、年齢が下がれば下がるほど薄れていく。
ニュースで見る卑劣な事件や重篤な病は、子供であるのなら僅かな同情さえ湧かない私に
生命を育む資格などあるわけがない。

私には人間的な欠陥がある。
確信があるからこそそれを隠すために、理想像を築き上げ、
その通りに演じてきた。
その着ぐるみを脱げる唯一の場所はどうしても、私ひとりでなくてはいけない。
たとえ自分と同じ遺伝子を持つ小さな人間であっても、生涯その領域にだけは入れることができないのだ。
家庭とは、私を殺す場所。
この先どれだけ年を重ねても、陽性であるなら同じ判断を下す。
だからこれは、ある意味での堕胎であったと思っている。


森田童子- 僕たちの失敗

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