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見えない世界と祈りと弱さ

物心ついた頃から気がつけば、目に見えない世界に圧倒され続けているように思う。何か感覚がブワブワっと自分の全身を刺激するような、そういった色んなエネルギー。感情とか、風や巡る気候や季節、体を動かしている力。そういったものが自分や場、空間にものすごい影響を与えていて、自分と誰かの間にも共鳴しあって空気が変わっていくような感覚がもう本当に面白い。

子どもの頃は魔法使いになりたいと思って「魔女っ子入門」という本を読んで密かに修行のようなことをしていた。中学生になっても、掃除の時間にひとりで箒に跨っては、飛びたいなぁと思っていた。

それからだんだん、10代も後半になるとどんどん現実の世界が幅を利かせて来て、いつのまにか自分はどんよりとした現実を前に自信の無い人間になっていったなぁと思う。

それでも多分、描いた夢を忘れられなかったと思う。子どもの頃に見た野の花々や柔らかい春の空の色、水の透き通って光を呑み込み反射する美しさとか、小さな生き物のひたむきさとか。自分の中に暖かくて優しくて柔らかい世界がたくさんある。

色々な出来事があったけど、大人の時間を過ごす中で、実生活の中でもまた少しずつ、見えない世界を大切にしてそれと共に生きるような態度が身について来たかなぁと思う。でも精度はまだまだ上げていきたい。

いわゆるスピリチュアルと言われる界隈は、本当に玉石混合と思っていて一概には語れないけど、大切なものを大切にして祈りを忘れないこと、その力をこれからも信じ続けたいと思う。

昨日、お話した10歳年上のご友人が語った、弱さについての言葉を反芻する。

自分の感じた寂しさや悲しみや弱さは、大切にしたい。
自分の寂しさや悲しみを知ることで、自分が大事にしたい人を大事にする力にしたい。

(言葉そのものはうろ覚えになってしまったけど....)

はっとしたのだ。

弱さとか、悲しさとか寂しさって、現代文明、市場社会では、金儲けのカモにされるか、不要なものとして押し込められて蓋をされるかのどちらかやないですか。

そういう役に立たないみみっちい部分、無力だった子どもの自分が全身で感じていた心細さとかそういう繊細なものを、受け止めて、大切にすること。なんのために、誰かの弱さに寄り添う為になんて、ああそうだ、そうだ、もうそれ以上の、しょうもない自分を認める意味なんて無いんだと、すごく腑に落ちた。

心が痛む出来事が多い。

自分自身の弱さが、自分以外の誰かや何かへの不満に変わったりして、攻撃的な形になることに気づくこともある。

何とも情けない自分。

でもいつも思う、そういうしょーもない自分も含めてひっくるめて、やっぱり少しでもより良く在れるように考え、体を動かすことを諦めまいと。

そんで少しでも良き人間になって、少しでも誰かに良きものを分けていけるといいなと思う。

柔らかい風と雨。終わっていく4月に思うこと。

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