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〈コンポージアム2023〉関連公演 近藤譲 合唱作品による個展

曲目(全曲近藤譲作品)
指揮:西川竜太

「華開世界」混声合唱のための(1977)
  演奏:混声合唱団 空(くう)
「雪が降ってゐる」混声合唱とピアノのための(2001) 詩:中原中也
  演奏:混声合唱団 空(くう) 篠田昌伸(pfI
「サッフォーの三つの詩片」混声合唱とフルート・トムトムのための(2003) 詩:サッフォー 訳:上田敏
  演奏:混声合唱団 空(くう) 多久潤一朗(fl)
「薔薇の下のモテット」12人の声のための(2011) 詩:蒲原有明
  演奏:ヴォクスマーナ
女声合唱のための歌二篇(2013) 詩:蒲原有明
  演奏:女声合唱団 暁
「嗟嘆(といき)」11人の声のための(2017) 詩:ステファンヌ・マラルメ 訳:上田敏
  演奏:ヴォクスマーナ

主催 TRANSIENT
共催 東京オペラシティ文化財団

「コンポージアム2023」関連公演の最後は合唱作品集。

「華開世界」…線的に上昇・下降する動きが交錯するさまは、どことなく60〜70年代の実験音楽の香りがする。「音楽はテキストの外にある」と作曲者によるプログラム・ノートにはある。だけれど、一旦テクストを知覚すると、耳はことばを追いかけ始める。これも執着というべきか。

「雪が降ってゐる」…「雪が降ってゐる」という箇所のリフレインは旋律的、合いの手の「とほくを」は和声的なフレーズで歌われ、テクストが階層化されて示される。読み解き方を一義的に定めることの当否はおくとして、一つの解釈ではあろう。合唱を節目ごとに受け止めるピアノの和音が、いかにもこの作家らしい響きである。声の厚みがもう少しあったほうがいいように感じた。

「サッフォーの三つの詩片」…トム・トムは古代の詩篇であることを合図するものか。2曲目は急速な連符の分担があり、少々大変そう。タイミングが正確な反面、言葉が聴き取りにくくなったのが残念。

「薔薇の下のモテット」…委嘱作だけあってヴォクスマーナが存在感をみせる。複歌詞による作だが、今年3月の同団体による演奏を聴いた時ほど輻輳した感じを受けなかった(会場のせいか)。朽ちた泥の中から仄暗い想いが立ち昇って来る感触が伝わる。

「女声合唱のための歌ニ篇」…2曲目がおもしろい。複数の声部が同じ歌詞を、他方よりも僅かに先行しつつ重唱する。

「嗟嘆」…こちらも3月に聴いている。美しい文語詩の言葉が柔らかく聴こえてくる。詩の内容は瑞々しい感情の発露だと思われる。だが、本作の構造は非常に繊細かつ複雑で、直接的な感情表現とはみえない。本作はむしろ、上田敏による典雅な訳文の姿に多くを負っているように感じる。内容ではなく、語を選び出し、文を構成する時の、ごく繊細な感性と、慎重な吟味による創作姿勢である。

今回取り上げられた作品は、「嗟嘆」をはじめ、近代日本の詩をテクストとするものが多かった。今回のコンポージアム関連公演会場で、ブルーシートによる「近藤譲作品リスト」が配布されていた。このリストによると、今回のプログラムは2001年の「雪が降ってゐる」以降の合唱作品を網羅していることになる。そして、いずれも近代日本の詩人、訳詩家のテクストによる作品である。

今回の上田敏、蒲原有明による作をはじめ、文語詩に向き合う時、わたくしたちは、よく馴染んだ作品であっても第一言語である現代語よりも距離を感じる。何より、自分の身体の中にあることばではないためである。こういった非同時代のテクストを近藤氏が選ぶことには理由があると思う。もちろん内容は把握できるのだけれど、直観の機能しない、外国語にも等しい文字列。読むにせよ、耳で聴くにせよ、あるいは曲をつけるにせよ、自分とテクストの間に何らかの媒体を挟むこととなる。知っている日本語と連続するものでありながら、直接に体感することができないもどかしさがある。それゆえ、自分の中に取り込むにはまず時間をかけて観る必要がある。じっくりと向き合うことによって、テクスト自身が語る声を聴き出していく過程。これは、「聴く」ことを出発点とする近藤氏の創作作法にそのまま通ずるのではないか。

近藤氏は自作におけるタイトルを、しばしば「単なる曲の名前」だと述べる。氏はことばの持つ力を深く理解しているのだと思う。よく知っていることばであればあるほど、それに引きずられてしまう危険性が高い。それゆえ、あえて音楽の内実と関わらないことばによって作品を名付けるのではないか。このことはまた、合唱作品において文語テクストを用いることにもつながるように思う。

近藤氏の、ことばと音楽を巡る省察のあとを丁寧に辿る一夜であった。(2023年5月30日 東京オペラシティ・リサイタルホール)

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