〈コンポージアム2023〉近藤譲を迎えて フィルム&トーク
『A SHAPE OF TIME -the composer Jo Kondo』(2016年、約100分、日本語字幕付)
監督:ヴィオラ・ルシェ、ハウケ・ハーダー
対談:小林康夫(哲学者・東京大学名誉教授)/近藤譲
「ドイツの映画監督ヴィオラ・ルシェと、作曲家でもあるハウケ・ハーダーによる近藤譲のドキュメンタリー映画」。日本では初上映とのことである。
A Shape of Time
近藤氏には、「A Shape of Time (時の形)」というタイトルのピアノとオーケストラのための作品がある。オーケストラがクレッシェンドでロング・トーンを奏し、最強奏に至ったところで、同じ音高の音でピアノが引き継ぐ。ピアノの音は自然減衰するので、ダイナミクスのなだらかな山が描かれていく。クレッシェンドを奏することのできる管弦楽器、減衰する音しか奏することのできないピアノ。ここには本当の意味の「協奏」がある。「協奏曲」は、管弦楽作品の中で重要なジャンルとして長く書き継がれている。本作は伝統的な「協奏曲」とは似ても似つかない。「協奏曲」というジャンルに対する痛烈なアンチテーゼにもみえる。しかしながら、それはさして重要ではない。むしろ、この作曲家がずっと取り組んでいる、ひとつの音、そして次の音、と一つずつ書き連ねる書法がきわめて端的にあらわれた作品なのだと思う。ごく単純な手法が、思いがけず複雑な音の世界を展開させていく。そして、厳密に記譜されてはいるが、オーケストラの各奏者もピアニストも、互いの音を注意深く聴き合うのでなければ形にならない音楽である。この作品の題目を映画のタイトルに選択したことには深い意味がある。
聴くこと
映画の中で近藤氏は、自分の創作の基本はあくまで聴くことだと述べる。ひとつの音から始め、楽譜に書き留める。やがて次の音が浮かんでくる。それに耳を傾け、書き留める……。そのようにして書き繋いでいくという。初めに全体を設計することはせず、一音ずつ積み重ねていく。したがって、自分の音楽の作り方は、直観的、即興的なのだとも述べている。
近藤氏は、一つひとつのものに小さな世界がある、という仏教的な世界観が、自分に影響を与えているという。一つずつの音を大切に決めていく創作は、このような世界観に裏打ちされている。アムステルダムでのレクチャーの中で、音大生から、「直観的」な創作には限界があるのでは?との問いが投げかけられていた。ご本人も同じことを繰り返している気がすると率直に応じる。
映画はインタビューに答える近藤氏の語りを中心に構成されている。ただし、インタビュアーの姿はあらわれない。
いくつかのキーワード
近藤氏の語りには、いくつかキーワードとおぼしい単語があらわれる。
「普通」
まず、「普通」ということばである。近藤氏は自らの作品について、一見「普通」に見えるけれど、皮を一枚取り除けてみると、不思議なものが隠れている、そんな音楽を書きたいと語る。また、自分の音楽は自然物と同じようなものでありたいという。音楽がただそこにあって、聴く人はその中に何かを見出す。
そして、作曲にあたっては自分を開くことが大事だと述べる。それは自分の中身を見せるということではなく、他者とのコミュニケーションであるという。自分は音楽を作って、他者に示す。その作品を誰かが聴く。作曲家と聴き手は直接にやりとりするのではないけれど、作品は共有している。そういう形でのコミュニケーションだという。このような姿勢もまた、「自然物」としての作品、さらには「普通」という概念と通うものだろう。
「曖昧さ」
近藤氏の話の中では、「曖昧さ」ということばが何度もあらわれる。音と音の関係性、具体的には音の並びが旋律的に聴取できるか、できないかについて述べたものだと思う。曖昧にするということを聴いた時に咄嗟に連想したのは、作為の跡を消すということだった。しかし、映画での語りやあとのトークを聴くうち、そうではなくて、ひとつの解釈に限定することを回避しているのだと思った。
また、曖昧さについて、似ているけれど、僅かに異なる、自宅のある鎌倉の山並みに似ているともいう。全く同じではあるけれど、確実に異なっている、日常の一日一日と同じである。
さらに、ある音を中心的にしすぎないために他の音を重ねるという話が出てくるのだけれど、ここでも「曖昧にする」という表現を使っているのが印象的だった。和声の作り方の基本姿勢が垣間見える。この作家にとっての作品は自然物なのだから、少なくとも機能において明示的な指向性を持つことはない(山は土地の隆起などの結果としての地形であり、機能は持たない)。
「無目的」
「無目的」ということばも何度も語られる。ここでは因果関係をあらわさないといった意味合いで用いてられているとのこと。これもまた、音相互の関係性を一つに規定しないということだろう。
作曲家の「内」と「外の世界」
上映後の小林康夫氏とのトークで、作曲をする際に、頭の中で聴こえた音は、まだ「外」のものになっていない、ピアノでその音を弾いてみて、初めて外のものになる、と近藤氏は語る。世界と自分との関係を作るために音楽を書いている。ことばにならない、ことばではあらわせないものを音であらわそうとしているのだという。
また、音楽を作ることによって、世界の観かたが変わる、そのために創作しているのだとも述べる。外化された音によって自身にとっての世界が変わるということか。そして、外からの影響は絶えずあるという。70年代には当時流行していたスペクトル楽派(※読んでくださったかたからご指摘がありましたので補足します。今回コンポージアムのオーケストラ作品による個展を指揮するピエール=アンドレ・ヴァラド氏が近藤氏に「あなたの70年代の作品には時代の刻印が感じられる」とコメントしたという話を近藤氏が披露なさいました。その流れで、かのグループの音楽が自分の作品に影響を与えていたかもしれない、と述べていらっしゃいました)、最近はずっと聴いているルネサンス期の音楽。実に長い時間に渡り、近藤氏の創作方針の根幹は揺るがない。だが、外界には絶えず敏感でありつづけているのである。先にも出てきた「自分を開く」ということともつながるだろう。
外の世界からの影響は実は音楽にとどまらないはずである。社会情勢、政治動向など。近藤氏の創作は、そういった外の世界を丹念に描く営為ではないか。
実際にピアノで弾いてみないと外のものにならない、と語るのは、形を与えられた音が、外の世界の表象として適切か否かを照合する作業ではないかと考える。こうした創作姿勢はジョン・ケージを受け継ぐものとみえる。
映画の中で、作曲家が自宅のピアノの前で創作する姿が幾度か映し出される。一つ音を弾いては考慮に入る。音をぽつ、ぽつと紡いでいくさまは職人的でもある(映画には、馴染みの寿司店で作曲家が一人夕食をとる場面も登場する。職人である親方の手つきのきれいなこと)。
近藤氏の音楽の一音一音の美しさ。それとは時として不釣り合いな、異様にぎくしゃくとした進行。これらは、そうした地道な、正直な仕事のあらわれなのだと理解した。
近藤氏は作曲する際に一つの流儀を愚直なまでに貫いてきた人だということがよくわかった。その意味ではご自身が語る通り「普通」の作曲家と言えるのかもしれない。しかし、堅実という域を遥かに超え、他に類を見ない独自の音楽世界を確立していることは言うまでもない。
この作品は、近藤氏の作曲哲学を、丹念な取材によって見事に浮かび上がらせた。美しく、静かな映像が印象に残る。小林氏が語っていた通り、近藤氏と監督のハイケ氏の深い交流の賜物である。(2023年5月23日 東京オペラシティ・リサイタルホール)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?