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〈コンポージアム2023〉近藤 譲の音楽

[出演]
ピエール=アンドレ・ヴァラド(指揮)
読売日本交響楽団
国立音楽大学クラリネットアンサンブル

[プログラム]
近藤 譲:
牧歌(1989)
鳥楽器の役割(1974)
フロンティア(1991)
ブレイス・オブ・シェイクス(2022)[世界初演]
パリンプセスト(2021)[世界初演]

珍しい作品を聴ける、またとない機会ということで、楽しみに出かけたのだけれど。

「牧歌」…聴いていて、大変な難曲であることがよくわかった。連符を複数パートで分け合うパッセージは、どうにか合う段階まで漕ぎ着けたと感じられたが、フレーズや和音の立ち上がりの合わない箇所が多数見受けられた。このような繊細な作品では決定的である。もっとリハーサルの時間を用意すべきだったのではないかと感じた。

「鳥楽器」…冒頭の声部の薄い部分は弦楽器群がグリッサンドをおっかなびっくり探りながら弾いているのが伝わってきた。結果的に、何とも心許ない気分を最後まで引きずることとなった。なお、途中、いかにもフランス近現代という響きが聴こえる場面があり、リハーサルの際にヴァラド氏が「時代の刻印」と評した(2023年5月23日フィルム&トーク席上での近藤氏の発言)というのはこのあたりかと想像した。

前半は2曲ともオーケストラが指示待ちの姿勢であることが表面化していたのが残念。近藤氏によるオーケストラの書法は後述の通り独特で、大編成であっても個々の箇所は比較的小さなアンサンブルによって成立していく。したがって、各奏者が自発的に動くことが望ましいと考えられる。

「フロンティア」…3人のソロを擁するコンチェルト・グロッソのような構成で、全編美しい音が織られていく。ただ、ソロ群と合奏との区分はかなり明確で、合奏を複数(5群)に分ける必然性があまり感じられない。曲の半ばほどで、合奏がゆったりとした下降スケールを静かに奏する部分にはっとさせられた。

「ブレイス・オブ・シェイクス」…表題は「一瞬の間」(プログラム・ノート)の意とのこと。ごく細かい急速なパッセージが続く。連符の中抜けは少ないようなので、「牧歌」に比べると難度は遥かに低いと思われる。ふっと動きが止まると四つのカウベルで静かなトレモロが奏される。

「パリンプセスト」…表題は「最初書かれた一部または全部の文字を消してその上に別の文を書いたもの」(『研究社新英和大辞典』)の意。ピアノ独奏曲「柘榴」(2020)の「オーケストラ・トランスクリプション」とのことである。「ブレイス〜」とは対照的な緩やかな作品。息の長いふしを、弦楽器群がストレートに奏する部分と、オーケストラ全体が点描風に綴っていく部分とが交互に配される。静かな曲調ゆえ、アインザッツの僅かなずれが非常に気になった。テンポもリズムも大きな変化がないのだから、あそこまで丁寧に指揮をせず、奏者同士が聴き合って合わせるのに委ねれば、もっとおもしろく聴けたはずだし、アンサンブルの精度も上がったはずだ。読響の実力をもってすれば、無理な相談ではなかっただろう。

作曲家自身によるプログラム・ノートにはこうある。

私のオーケストラへの作曲は、昔も今も、オーケストラを裁断し、いくつかの部分に分けることに始まる。そして、それらの区別された諸部分間の関係性によって、曲が形付けられるのである。

「コンポージアム2023」プログラム

近藤氏の作曲は「聴く」ことがベースだとドキュメンタリー映画「A Shape of Time」の中で本人が語っている。それは、近藤作品の演奏にも当てはまることなのではないか。「裁断」された個々の奏者(群)が、指揮者の指示に受動的に従うのではなく、互いの音を慎重に聴き合うこと。それによって初めて、作品の有機的な構成が完成するのではないだろうか。この曲でもやはり、準備時間の不足が惜しまれた。

先述の通り、前半・後半で曲の難度の差が歴然だった。これは演奏家ではなく、運営上の問題だと思う。第一の要因は、繰り返しになってしまうが、リハーサルの時間を十分に確保できなかったことだと推測される。財団主催による作曲家の個展はこの一回のみである。にもかかわらず、ごく限られた時間で今回のような特殊なプログラムをこなすことを求められる指揮者もオーケストラも気の毒でならない。何より、準備の時間を充分に確保することが主人公である近藤氏への最低限の礼儀であろう。(2023年5月25日 東京オペラシティ・コンサートホール)

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