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健康的快楽の価値が上昇する時代を迎えて

 あらゆる事物の価値は、その時代の環境要因に左右されるだろう。別の時代では到底受け入れることのできないであろう価値観であっても、その時代に大多数の市民によってそれが信じられているのならば、それは常識ーー価値判断の主体に強く依存した、ひどく曖昧で、それが作為によって流布されたような場合には恣意的ですらある、複雑な概念だーーとなる。

 小説を読むことは不良の行いであった。国の命令によって命を投げ捨てる若者を引き止めることは恥ずかしい行為であった。人種の異なる者をそれとわかる言葉で罵ることは特段咎められるような行いではなかった。公の場で他人を怒鳴りつける行為は、ハラスメントと認識されることなく罷り通る行為であった。
 キリがない。こういった誤った価値観が広く共有されてしまった社会の状態を、私たちは時間をかけてひとつずつ丹念に是正することで、今に至っている。

 数百年後の地点から人類が歴史を振り返ったときに「これは誤りであった」と判断されるであろうことは、今の世の中にも依然として数多く蔓延っているのだろう。「勝てば官軍」ーーこれは近視眼的な思い込みにすぎない。人類が知性と引き換えに手にしてしまった多くの業はまるでバグのように、これまでと同じく丁寧に、ときにラディカルに、正されていくだろう。ただし、その裁定の際のガイドラインは、今の私たちがはじき出すことのできるものとなるとは限らないだろう。なぜならそのガイドライン、つまり疑いようのない絶対的な価値観こそが、時代の環境要因によって規定されるものなのだから。

 広く大きな話はこれくらいにしよう。それは大切なことではあるが、焦点を合わせたいのは自分が生きている時代であり、今日や明日や来月のことである。今の時代について考えよう。感染症の流行という環境要因の変化が訪れてからまだ日が浅い、今の時代について。
 新しい生活様式などと呼ばれる現在の生活において、何か、その価値が変わったものはあるだろうか? 私はひとつ、例を思いつく。戦争の脅威によって上昇する防衛関連銘柄の株価のように、数字上でも明らかにその価値が上がっているであろうもの。それはランニングだろう。

 足腰の強化のための日常生活プラスアルファの習慣、この習慣の価値が今までとは比べ物にならないくらいに大きく上がったと考えてよいだろう。それは相対的に下がったものーー日常生活で賄うことのできる足腰のための運動量ーーがあることに起因する。日射量の少ないイギリスでビタミンDの価値が高まるのと同じようなことである。人の生活や健康に影響を及ぼしうるある値の上下、つまり環境要因の変化、それが別のものの価値を変えてしまった一例であると言えるだろう。

 ここからは、価値が上昇したであろうそのランニングといかに向き合うかについて、手短に考察したい。

 運動習慣が身体のみならず精神にもよい影響を及ぼすことは周知の事実であるが、しかしその取り組む姿勢によっては精神への悪影響が生まれる可能性がある(その恩恵と比べれば些細なものかもしれないが)ことも、一度考慮する必要があるだろう。
 ランナーAとランナーBがいて、同じようなペアがある程度十分な数存在すると仮定する。Aは運動全般がとにかく好きで、走る行為にも無条件に楽しさを感じるタイプである。一方でBはというと、運動が得意ではなく、好きでもない。ランニングをしなければならないと考えるだけで、ストレスを感じる。
 仮にこのAとBが全く同じ健康状態にあり、全く同じ内容のランニングを1年続けた場合、その後の心身の健康状態も果たして同じ値になるであろうか? 1組くらいは同じ値になるかもしれないが、大方ならないだろう。Bに関しては、もしかしたら違った形での有酸素運動および足腰への負荷のかかる行動を取り入れた方が、精神面ではよりポジティブな結果を生んだであろうと推察することもできる。

 ランニングの習慣を取り入れるに当たって、その価値を十分に享受するために重要となるのは、その行いに快さを抱きながら取り組めるか否かだろう。そのために一度、ランナーズハイについて考えてみたい。18世紀の哲学者ベンサムが言ったように、快楽と苦痛とは人を強く縛るものであるからだ。エンドルフィンなどの快楽がランニングの報酬として存在するのであれば、極めてポジティブな心持ちで走る行為に臨むことが可能になるかもしれない。そしてそれは同時に苦痛を低減しうるだろう。
 『快感回路ーーーなぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか』(デイヴィッド・J・リンデン)によれば、ランナーズハイを経験したと語るランナーは、実はそう多くはないのだという。しかし脳を計測したところ、ランニング後の被験者の脳はやはりある種のよい状態にあることが認められたという。
 同書に綴られたWilcoのボーカル、ジェフ・トゥイーディーの印象的なエピソードを紹介して、この思いつきの駄文を締めたい。
 酒、煙草、鎮痛薬などのあらゆる物質への依存症に苦しんでいたジェフは、あるときからランニングの習慣を取り入れたという。すると驚くことに、彼はランニングに「依存」し、気づかずに両足の骨が疲労骨折してしまうまで、走ることに夢中になったのである。
 その骨折に関して、依存してしまうのが私だ、という旨のことを彼は語ったという。しかし酒や煙草などはわかるが、ランニングがそれと並ぶというのは不思議な気がする。私にとってランニングといえば、この四半世紀の人生において、苦痛以外の何物でもなかったのだからーー。
 骨折するまで続けてしまうような依存性が走る行為にはあるのだろうか。それを確かめるためには、まずはその先の快楽の存在を信じることでランニングをポジティブに捉え、そして継続する必要があるだろう。なぜなら、依存とは、それを好んで習慣的に継続する経験を経ることで初めて起こる事象なのだから。そしてもし私がランニングに依存したならば、私にとってのランニングの価値は、これまでの半生と比べて、劇的に変化したことになると言えるだろう。

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