浅はかさとの距離

 やみくもに手足を動かしているだけでは、浅はかさとの追いかけっこからは逃げきれない。それは自身の影から逃げようとする行為に近いだろう。
 事実、それは影だ。棺桶までつきまとう影だ。逃げ場などこの世には存在しない。日の当たらないところへ逃げ込めば、影はその浅はかさを助長し、闇へと引きずり込もうとするだろう。つきまとう呪いから逃げることはできない。目を逸らすこともまた、できない。
 浅はかさは忘れた頃にその姿を覗かせる。もう消え去ったと思っていた、そんな頃が一番危ない。それは頃合いを見計らい、極めて狡猾にトラップを仕掛けてくる。忙しなさで近視眼的になった昼や、刺激を求めて彷徨う夕暮れ、ストレスにすり減った夜に、何の気なく踏み出した一歩を払いにかかってくるだろう。ラインに逃げようと、ツイッターに逃げようと、そしてこのノートに逃げようと──浅はかさはエクリチュールに忍び込むだろう。踏み固めたはずの足場を崩しにかかるだろう。いつになろうと、どこへ行こうと、常に注意を払わなければならないのだ。

 車の運転を始めた当初は、数キロを走っただけでひどく疲れたものだ。それは遠い昔の話だ。ちょっとコンビニまで行くだけで左右の確認や車間距離に神経をすり減らしていたなんて、今では信じられないことだ。
 だが実際に、そういった時期を経て今に至っている。今では運転など造作もないことだ。高速を何キロ走ろうと大して疲れはしない。それは学習し、訓練し、心身に運転のノウハウを覚えこませたからだ。そのプロセスを気の遠くなるほどの回数こなした結果、今では事故を起こす確率が限りなく低くなったのだ。しかしそれでも、ゼロではない。現在でさえ、運転をする時には様々なことに気をつけなければならない。それは逃れられるものではない。忘れた頃にヒヤッとしてしまわないよう、常に注意を払わなければならないのだ。

 長期的には完成形を目指していく。ヤスリをかけるように。禅の修行をするように。だが、その道中でも運転はしなければならない。学習して、訓練して、技術を心身に覚えこませ、走っていく。そのうちに楽になっていくだろう。人を脅かさないアクセルの踏み方を身につけるだろう。
 ただ、ひとつだけおそろしいことがある──運転は年をとれば免許返納と同時にやめることができるが、言葉や振る舞いは、他者とのコミュニケーションは、そうはいかないのだ。
 お酒に酔った時にも。

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