マガジンのカバー画像

Paris

29
運営しているクリエイター

2018年9月の記事一覧

Paris 5

 目が覚めたのは夕方だったが、手元の時計よりも先にまず視界に入ったのは、いつのまにか部屋の中にいた大柄な男だった。反射的に体を起こして挨拶をすると、男は早口だがトーンを抑えた穏やかな声色で「起こしてしまって悪いな」と、一言謝った。アメリカだな、と思った。西と東のどちらか、少なくとも明らかに南部の訛りではないだろう。話してみると、やはりその男はニューヨーク・バッファロー出身のアメリカ人だった。  バッファローの人間に会うのは初めてだ、と私は少し嬉しく感じていた。見事な髭を蓄え

Paris 4

 ロシュシュアール通りから右に狭い小道を入り、20メートルほど歩いてヴィンテージ・パリ・ホステルに着くと、オートロックのドアの横にある小さなブザーを鳴らした。珍しく、ドアはすぐに解錠された。中に入るとレセプションには顔なじみの若いマダムの姿があった。あら、あなた、パリへおかえりなさい。そう言って彼女が微笑むと、私はようやく家へと帰って休むことを許されたような気分になった。今回は夜行バスだったから少し疲れたよ、と愚痴をこぼしながら鞄をクロークへ運び入れると、フロントロビーの端の

Paris 3

 何度目かのパリだったが、朝のモンマルトルを訪れたのは初めてだった。普段は観光客で溢れかえる土産物屋の並ぶ通りにも、人の影はほとんどなかった。丘の入り口へとつづくその通りを抜けると、私は左回りのルートで頂上へと上がることにした。モンマルトルの頂上へと抜けるルートはいくつかあり、そのうちのいくつかでは、ミサンガ売りの黒人が有名だ。人手の多い昼の時間になると彼らはその狭い道の真ん中にたむろして、通り過ぎようとする観光客の腕に強引にミサンガを巻いて高い料金を請求する。私はこの類の被

Paris 2

 早朝の駅が好きだ。一日の始まりの、まだ街が忙しなくなる前の穏やかな時間。早くから支度を済ませて家を出た人々が、コーヒーや新聞を手に少しずつ心身を温めながら、どこかへと向かう電車を静かに待っている。ホームの隅で呼吸をすると、澄んだ空気が肺を満たす。体が内側から無理のない速度で自然に目を覚ましていく。遠くから近づいてくる電車の音や、落ち着いた声色の駅員のアナウンスは、耳に心地よく響くと、優れたアラームのように少しずつ脳に刺激を与えてくれる。そうして目的地の駅の改札を出る頃には、

Paris 1

 パリに着いたのは、翌日の早朝だった。夜から朝にかけて高速を走り続けたバスは、フランスに入るとまずシャルル・ド・ゴール空港近くのバスターミナルで停車した。運転手が短くアナウンスをして、それに続いて黒い制服を着た数人がバスに乗り込んでくるのが見えた。入国審査だ。  私はジャケットの内ポケットにパスポートがあることを確認しながら、周りのオランダ人たちの様子を伺っていた。「オランダとベルギーとの国境に差し掛かる直前まで、マリファナ入りの菓子を食べ続けていたオランダ人たち」の様子を