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第5章: 坐禅の実践②

師匠「ムゥー!!!!」

カエル「(!)び、びっくりしたぁ〜。何ですか?いきなり ... 」

師匠「ふむ。同じようにやってみて。」

カエル「むー!!!」

師匠「これを、ひたすら続ける。」

カエル「むー!!!むー!!! ... こんな感じですか?ケロ。これが、さっき言ってた道具?」

師匠「そう。ただ、口先だけでムーって言うのではなくて、どっかりと坐って、   全身全霊で、ムーっ!!とやる。頭のてっぺんからつま先まで力を満たして、全力で、体全体でムーっ!!とやるんじゃ。これを目覚めてから寝るまで、坐っていても、そうでなくても、続けるんじゃな。

カエル「一日中っスか?大変だなぁ ... ケロ。」

師匠「うむ。実際はそれは難しいから、坐禅の姿勢で、とか、ちょっとした休憩 時間に、とか、そういう時間を軸に据えてやっていくのが良いぞ。でも、気持ちは、24時間ぶっ続けでムーっ!じゃ。もし環境的に大きな声を出すのが難しい場合は、無音でムぅぅぅぅ ... とやるのもOK。」

カエル「ほぇ〜 ... ところで、なんで、こんなことをするんスか?」

師匠「普通はそう思うよな?まぁ、まずは頭で納得する ... これも、とっかかりとしては大事じゃからの。よし、解説しようか。」

カエル「やった〜。ケロ。お願いします!」

師匠「ムーっ!!とやれ、とワシが言うじゃろ。そいで、実際にやってみると、 自分がムーっていう音を出している感じがするじゃろ?

カエル「そ、それはそうですね ... 逆に、そうじゃないんスか?」

師匠「まぁ、一般的にはそう思うのが普通じゃな。じゃが、実際は、そうでは  ない。自分で、自分の考えの上で、自分とムーっを二つに分けておるだけなの  じゃ。

カエル「う〜ん、そうなのかな??ケロ。」

師匠「そうじゃよ。ムーってやっているとき、まさにその瞬間じゃよ、そのときに、このムーっ以外に、どこかに自分らしきものがあったら、ワシもお目にかかってみたいぞ、カエルよ。」

カエル「そ、そうなの ... ?」

師匠「嘘だと思ったら、実際に探してみろ。自分で確かめにゃ仕方ない。でな、 この、自分とムーっが分かれていない、というのが超重要でな。さっき、坐って いる間、何かしらのものに向かって、働きかけをするということを全くしないことが大切。と言うたじゃろ?」

カエル「あ、そうでしたね。ケロ。」

師匠「そういう風にしているときは、自分が、とか、相手が、とかそういったことは全然意識しておらんものじゃろ?」

カエル「う〜ん。そうかもしれないス。」

師匠「んで、意識しておらんかったら、そもそも自分とか、相手とか、そういうものが有るとか無いとか、そんなことを言うことができるかの?そういうことは、後付けで、常識的には有る、とか、思っている。考えているだけなのではないか?

カエル「え?あれ?そう言われてみれば ... 」

師匠「自分とか相手とか、そういうものを自分で認めなかったら、自分が相手に対して執着したり、嫌悪したり、そういうことはできるかいの?」

カエル「師匠、今回は質問責めっスね ... う〜む。いや、できないっスね。 ...        あれ?あれれ?でも、そうすると、坐禅をしているときは、師匠の言ってた、何も求めなければ満点、に、もうなってますね!」

師匠「ビンゴ!そうなんじゃよ。考えの上で「相手」を立てぬまま坐っておれば、そのとき自分もない。だって「自分」って、「相手」に対しての自分だもの。逆もそうじゃ。この「自分」も、考えの上での話じゃ。

師匠「そいで、求める相手も、求める自分もないとき、何かを求めようがないじゃろ?理屈で言っても、そうだとわかるじゃろ。んで、ポイントじゃが、本当に坐禅しているとき、もうすでにそうなっている(そうでないのは坐禅ではない)、ということじゃ。これ、なにげに、すごくないか?(いや、本当は坐禅していなくてもそうなんじゃが ... まぁいいや)」

カエル「いや〜、驚きっスね!!」

師匠「で、この坐禅をしているとき = ムーっとやっているとき、だと、どう       じゃ?つまりは、全身全霊で、一所懸命ムーっ!!とやっておるときは、もうすでに、ムーっも自分もない。あっちにムーっという音があって、こっちに自分がある、という感じには、ならないんじゃ。

師匠「そういう風に感じるような錯覚が、全部抜け落ちている。求めるものも、ものを求める自分もない。何も求めようがない。というわけじゃ。求めることが不可能なところ。真に楽になるところ、人を本当に楽にさせるところじゃ。そこに照準を絞り、そこに全力で在り続けることで、何かと求めてしまう癖を矯正し、みんなで楽になろう!といってやっていくのが坐禅なんじゃ。その端的なところが、四六時中ムー!!!じゃぞ。まぁ、書道の達人のお手本を真似して書いていたら、字が自然ときれいになっていくようなもんかいの。」

カエル「あれ〜?とすると、一生懸命訓練して ... とか、そういう必要なく、ただムーっとやってりゃあいい、そのまんまの自分でOK!ということなのかな?ケロ。」

師匠「コラっ!そりゃ早とちりじゃ!!

カエル「ひえっ!す、すみません ... 」

師匠「事実そうなっている、というのはそうじゃが、そう言われても、やはり心底は納得できんじゃろ?どうじゃ?これは、考えの上で納得する、とかでは到底無理な話じゃ。だって、まさにその、考え(自他、損得、愛憎などなど)、が作っている悪い癖を落とさにゃならんのだから。そのことに考えを使ったら、血で血を洗うようなもんじゃ。」

師匠「とにかく、一度、さっき言ったようなところの事実をはっきりと、体験的に、見届けにゃならん。百聞は一見に如かず、じゃ。書道の喩えで言ったら、お手本を手にいれにゃならん。そこからじゃ、本当に、癖の矯正、がしっかりやれるように なるのも。だから、ただムーっ!とやればいいというものではなくて、この、体験的に見届ける、っていうことをどうしても、一度はやらねばならんのじゃ!心得よ!

カエル「おぉ〜 ... なるほど。あれ、でも、相手も自分もな〜んもないのときに、どうやってそれを見届けることができるんですか?ケロ。」

師匠「カエルよ、それは、べりーぐっどくえすちょん、じゃ。その問いに答えるには、いよいよSワードについて話さねばならんの。」

カエル「Sワード?」

師匠「英語圏で、放送禁止用語のことをFワードというのじゃが、それを、もじったんじゃ。Satori。つまり悟りのことじゃ。次回は、これをテーマにして、今回の一連のやりとりを総括するぞい。」

カエル「おお〜、楽しみです。」

師匠「では、ひとまず、まとめるぞ。

① 坐禅には、ちょっとした準備運動にあたるものがある。体を左右に振ることと、深呼吸。これをやると、気分がスッと坐禅モードに切り替わって、ぐっど

② 本当にただ坐る、坐ってそのまんま、というのは難しいから、「ムーっ!」と    いう音を全身全霊で出し続けることで、ただ坐る、と同じ内容の坐禅になるようにする

③ その「ムーっ!」とやっているところで満点だが、実際に、満点だ、ということが体験的にわからなければ、本当の納得はないし、本当に楽にはならない

④ だから、倦まず弛まず坐禅を続けて、四六時中ムーっ!とやるつもりでやって、本当に納得する = 悟る必要がある

こんなところかの。」

カエル「はい!ありがとうございました!」

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