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生きること、または、書くことについて

私は書いていない。少なくとも文章は。私だけでなく多くのビジネスパーソンも同じだと思うが今は“書く”のではなく“打つ”という行為で思考は形になり言葉は文章に変わる。
むかし誰かから「手書きで書いてこそ思いが伝わる」と言われたことがある。手書きで書いている途中に修正が必要になると消しゴムで消すか新しい紙に書き直すことになる。私はその行為に意味を感じない。大袈裟に言えば消しゴムで消す作業をしている間は間違えたことに対して罰を与えられているのではないかという感覚にさえなる。それでもどうしても手書きの必要があるときはパソコンで下書きをしたあと初めてペンを取るようにしている。手書きは本当に思いが伝わるのだろうか?
私は自分の思いを正しく伝えるためにできる限り推敲をしたい。推敲の数だけ文章の精度はあがると思っている。パソコンであれば書いた文章を消すのは一瞬なので手書きに比べて推敲に多くの時間を費やすことができることになる。自分の思考を正しく伝えたいという思いが手書きという行為をより私から遠ざける。
そもそも正しく伝える必要はあるのだろうか?人はどうせ誤解される。誤解されるのであれば時間をかけて推敲しても意味がないのではないか?しかし私は正しく伝えたい。たとえ誤解されるとしても誤解されるであろうことを承知の上で伝えたい。では私は何を伝えたいのか?
有り難いことに私は子供のころたくさんの本に囲まれて過ごすことができた。伝記や歴史小説や百科事典もあれば漫画もあった。インプットの数がアウトプットの質を決める。もちろん世の作家の方々には足元にも及ばないがそろそろアウトプットしても良いであろう量のインプットはしてきているはずだと思う。
私が好きな作品たちはみんな文字を追っているだけで景色が見える作品たちだった。もちろんそれが短歌でも。私はたぶん景色を伝えたいのだと思う。私の好きな景色。場合によっては嫌いな景色かもしれなない。そして共感をして欲しいのだと思う。
書くことによって誰かに共感してもらえる。そして誰かに共感してもらうことで生きることが楽しくなるのだ。
いまこの文章を書いている自分は楽んでいる。書くことは生きることなのだ。

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