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創作大賞「ドラゴン・シード」#1

あらすじ

 三十年前、この世界は隣接する異世界と接触事故を起こして様相を一変した。大災害の爪痕、崩壊した世界の秩序、異世界から流入した危険な生物『亜種』。
 ケイトとジンはそんな亜種を討伐する傭兵として活躍していたが、作戦遂行中のとある事故をきっかけに、二人の仲は決裂してしまう。
 それから十年後の現在、未だ復興途上の街では、謎の不審死が横行していた。犯人はおそらく亜種。だがなかなかその正体がつかめない。混乱した世界の中で、その捜査を新政府から依頼されたジンの前に、十年ぶりにふいにケイトが現れた。過去の傷がなかなかふたりを踏み込ませないまま、 彼らは謎の不審死を追いかけることになった。


一章

1話

 ケイトの足元で小さく何かが光った。
 目をこらすと、千切れた天然石のブレスレットが落ちている。何気なく拾い上げた時、風に乗ってかすかな声が聞こえた。
 ここは雑然とした繁華街の入口で、声がしたのはやや外れた方だ。
 再び、かん高い声。
 ──悲鳴だ。
 反射的に駆け出していた。
 薄汚れた路地裏に踏み込むと、廃屋の裏に黒毛の亜種がうずくまっている。あれは、黒猩々ブラックポンゴだ。
 オラウータンに似た黒毛の獣は、用心深く知能も高い。体長はニメートル前後。剛力で雑食で、鋭い牙と爪で引き裂かれれば人間などひとたまりもない。
 そしてこいつらは、ヒトにこっそり忍び寄り、いきなり襲いかかるのが好きだった。
 ポンゴが立ち上がった。
 小柄な女の左手首を掴んで高く持ち上げている。涎の滴る口からは鋭い牙が覗いていた。
 女は服を引き裂かれ額から血を流し、だらんと吊り下げられ朦朧としている。まだ少女といっていい年頃の若い娘だった。
 ポンゴがニヤニヤといやらしく笑っているように見えた。
 考える前に身体が動いた。
 腰の愛剣を掴もうとして空を掴む。
「ちっ」
 今日は買い出しに来ただけなので、寝ぐらに置いてきたのを思い出した。
 右腿のナイフホルダーからナイフを抜いて真っ直ぐ突っ込んだ。
 ポンゴが片手で娘を吊り下げたままこちらに気付いた。長い腕を振り回し、乱暴に掴みかかろうとする。それを寸前で交わし、少女の胴に巻きついた尻尾の真ん中を下から思い切りぶった斬った。
「ガアアッ――」
 ポンゴは、尻尾を切り落とされた痛みより、己の遊びを邪魔された苛立ちでケイトに掴みかかろうと躍起になった。
 棍棒のような長い腕をナイフで交わした。
 斬りつけられた腕からパッと鮮血が飛ぶ。
 ――刀なら腕を落としてやったのに。
 ポンゴは掴んだ少女を思い切り放り出した。その弾みに、小柄な体が地面にどさりと投げ出される。
「あぐっ……」
 少女のうめき声に一瞬ヒヤリとする。
「ギャアアアーッ‼」
 耳障りなポンゴの叫び声が狭い裏通りに響く。
 しかし残念ながら、何かと物騒なこの辺りでは、誰かの悲鳴を聞いて駆けつける奇特な者はいない。
 斬られた腕から血を流しながら、ポンゴは長い牙をむき出し、喉の奥を震わせて威嚇するように吠えた。
「ヴォウ、グォウ、ガルルル――…!」
 地面に投げ出された少女はうずくまったまま動かない。
 一瞬、彼女の安否に気が逸れた。
 と同時に、ポンゴがドッとこちらに向かって来る。
 ギリッと意識を集中すると、ポンゴの全身で胴を中心に数カ所が白く光って見えた。急所だ。
 太くしなる腕がブンッと力任せに振り下ろされた。紙一重で顔は避けたが、鋭い爪の先に左の腿を引き裂かれた。
 構わず突っ込み、ポンゴの頚動脈を切り裂きながら返り血を避けて背後にすり抜ける。
 寸前までケイトのいた場所に返り血がバッと散る。
 そいつが振り返る前に背中から心臓をひと突き。
 これで即死だ。
 ポンゴは声も上げずにドッと地面に倒れた。
 動かなくなったのを確かめると、急いで少女のそばに駆け寄った。
「大丈夫?」
 声をかけたが彼女はうずくまったまま震えている。
 少し大げさともいえるほど、様々な天然石を連ねたブレスレットやネックレスをいくつも着けているのでおそらく魔術士なのだろう。この天然石は魔石だ。
「魔術士だね? 治癒魔法歌える?」
 地面にうずくまったまま動かない少女に、ケイトは話しかけながら自分のアーミージャケットをかけてやった。
「うぅっ」
 若い魔術士の娘は、青い瞳からボロボロと涙をこぼしながらこちらを見上げ、屈み込んだケイトにいきなりしがみついてきた。明るいブロンドの髪が血で汚れている。
「うわあ…ぁ…あぁ」
 彼女を抱きしめ背中をさすりながら、ケイトは小さな声で「もう大丈夫、大丈夫……」と何度も囁いた。胸にしがみつく彼女の震える指先の力に胸が痛む。この様子では歌うのは無理だろう。年の頃から言っても経験の浅い新人かまだ修行中かもしれない。
「治療院へ行く?」
 少女は黙って首を激しく左右に振った。
「お仲間のチームは?」
 彼女はもう一度首を振った。
「ひっく、わ、私は道具屋で……」
「ああ、じゃあ店はどこ?」
「ううぅ……十二セクター……」
 海のど真ん中に開いた遠距離ロングチューブを経由し、ここから丸一日かかる遠方だ。
 投げ出されたキャリーバッグから魔法道具がいくつかこぼれているのに気づいた。 それをかき集めてバッグに詰め込み立ち上がった。
「じゃあ、宿まで送って行く。立てる?」
 ガクガクと震える彼女の腕を掴んで立ち上がらせたと思ったら気を失った。
 やれやれ――
 今日の予定は全部すっ飛ばして、このまま家に帰るしかないようだ。
 ケイトは少女を背負い、彼女のキャリーバッグを持っていまやってきたばかりの近距離ショートチューブに足を踏み入れ、町をいくつか経由した。

 三十年前、ある日突然この世界は、本来別の宇宙に存在し、交わる筈のない異次元世界と接触事故ビッグクラッシュを起こした。 
 その日を境に世界は様相を一変した。 
 陸海空であまねく起きた大災害が各地に壊滅的なダメージをもたらし、人類は60%まで減退した。それに加えて、異世界のよくわからない生き物や物質が流入し、また、こちらからもありとあらゆるものが失われていった。
 その爪痕は深く、三十年経った今もまだ、世界はその復旧と混乱に喘いでいる。 
 ケイトが今飛び込んだ『チューブ』と呼ばれる大小様々なトンネルは、場合によっては国境すら超えた数千キロも離れた別区画への通路で、次元のねじれが生んだ亜空間だ。 せいぜい数分歩くだけで長距離移動が可能なので、便利といえば便利だが、そこがどこに繋がっているかは行ってみるまでわからない。迂闊に飛び込めば、次元のはざまに迷い込み、二度と戻ってこられないこともあった。その先の世界が、灼熱の砂漠や極寒の氷原ならともかく、ごく稀に、すれ違った異世界が残していった極端にオゾン濃度の高い空間ということもあったのだ。濃いオゾンは有害だ。こちらの生き物は吸引したところから急激に酸化──つまり腐ってゆく。 
 しかし、多くのチューブはせいぜい数キロから数十キロ離れたこちらの世界だった。慣れてしまえば人々はそこを使って長距離を簡単に移動した。陸海空世界中のあちこちに残る空間のねじれは、長距離移動の鉄道や航空機を軒並み無用の長物に変えたので、これは唯一の救いだったかもしれない。
 世界に無数に開いているそんな亜空間で繋がった世界は、中央行政府セントラルによって、ロボットで安全が確認されたものだけが行き来を許されている。ただし、この世界のルールに縛られない異世界の亜種いきものたちはその限りではないというわけだ。 

 少女を背負ってチューブに飛び込んだケイトの目の前を、ぼんやりと光り、ふわりふわりと漂う光の玉オーブが、ある一線でスッと消える。あるいは消える前に、こちらに引き返してくるものもある。オーブはなぜかチューブから出られない。 
 すぐに明かりが見えてきた。出口が近いのだ。 
 何かの巨大タンクの一角を、風景ごとゴッソリと削り取ったように唐突に開いているチューブの出口を背中にすると、そこには打ち捨てられた広大な廃工場の跡地が広がっている。ビッグクラッシュの爪跡だ。湾岸地区のこの辺りは、直後の大津波で地域全体が壊滅的ダメージを被ったまま打ち捨てられたのだ。見渡す限り人の気配がない。 
 背中の少女をよっこらしょと背負い直し、ケイトは寝ぐらに向かった。 
 工場のそばにある朽ちかけた広い倉庫の片隅がケイトの住処だ。 倉庫の入り口に生えている、大きな桜の木を見てなんとなくホッとする。 
 去年の春、ギルドの仕事で亜種を追ってここへやってきたとき、この荒涼とした廃墟の中で満開の奇跡を見つけたような気がした。その日のうちに、ここへテントを担いで越してきた。 
 枝先がずいぶん赤くなってきたが、今は冬枯れの灰色の木肌を晒すばかりだ。 
 桜のそばの広い倉庫の片隅に、キャンバスを張り巡らせ、遊牧民のようにテントを立てて暮らし始めた。いずれこの辺りに再開発の手が入るまで間借りしようというわけだ。倉庫にかろうじてお湯の出るシャワーとトイレが残っていたのはラッキーだった。太陽光パネルを一部修理し、少しばかりの電力を確保できれば、ここは驚くほど快適だった。 
 とはいえ、傷ついた女の子をもてなせる設備は皆無だ。 
 おまけに、買い物ができなかったため食料が乏しい。すぐにでももう一度買い出しに行かなければならないだろう。 仕方がないから、先週買ったばかりのベッドは彼女に譲り、ケイトは寝袋を引っ張り出した。
 彼女が気を失っている間に、裂けた服を脱がせようとして一瞬ギョッとした。右の乳房のすぐ下から左の脇腹にかけて、赤い蛇が巻き付いているように見えたのだ。だが、よく見るとただの痣だった。どうやら生まれつきのようだ。そして、彼女からは微かに、独特の甘い香りがする。ずっとかいでいたくなるようないい匂いだ。 細かい傷があちこちにあったが、大きな怪我はないようだ。 両耳には小さな深紅の石がついたピアスが揺れている。宝石というよりこれも魔石かもしれない。 
 彼女の治療を一通り済ませば、次は自分の治療だ。血止めに使った破いたシャツの袖を解き、裂けたアーミーパンツを脱ごうとして、ポケットから千切れたブレスレットが出てきた。無意識に入れてしまったらしい。かろうじてまだ少し石が残っていたので、手当てを終えてから彼女のバッグの中に戻した。そして、コーヒーを入れると眠っている彼女がふと目を覚ました。 「ここは……?」 
「目が覚めた? 私の寝ぐらだよ。廃工場の倉庫の片隅で暮らしてるんだ。誰も来ないので安全だよ」 
「倉庫……」 
 ホッとしたのか彼女が再び涙を滲ませた。 
「あいつ、チューブを出てすぐのところに潜んでいて……」 
「うん、でももう大丈夫。名前は?」 
「フレーネ」 
「フレーネ。私はケイト」 
「ケイトさん」 
「ケイトでいいよ。ごめんよ、こんな粗末な家で」 
「私の育った家は、もっと酷いところだった。助けてくれてありがとう」
 フレーネが小さく笑んだ。
 一瞬、胸がぎゅっと掴まれるような悲しみに襲われた。
 あの未曾有の大災害以来、一部を除けば生き残った人々はみんなその日暮らしだ。 
 フレーネは十八だと言った。明るいブロンドに大きな青い瞳が、妹のサシャにどこか似ていた。
 夜になると、フレーネは熱を出した。
「それほど高熱じゃないから、感染症じゃないと思うけど、魔法でパパッと治せないの?」 
 ケイトがそう聞けば、フレーネが魔法はあくまで対処療法なのだと笑った。 
「それに、治療は出来るだけ自然に任せたほうがいいんです。魔法は無理やり治癒力引き出しているようなもので、魔術士の私にも負担がかかりますから、熱があるような状態だと却って長引きます」 
「へえ、自分で自分に治療魔法が使えないのか」 
「怪我や、どこかがひどく痛む場合は別ですけどね。だから、ケイトさえ構わなければ、もう少し休ませてもらえませんか?」 
「もちろんかまわないさ。ゆっくりして」 
 そんなわけで、ケイトは柄にもなく甲斐甲斐しく世話をした。 
 そして、そんな合間合間に彼女は少しづつ自分のことを話してくれた。 フレーネの住む十二セクターは、異世界の魔石の鉱山に直接つながるチューブが開いている小さな鉱山街だ。 街のあちこちに開いたチューブが様々な地域に繋がったこともあって、町は一時期はずいぶん賑わいを見せたらしいが、近頃は鉱山の魔石が枯渇してきたせいもあって、すっかり寂れてきたのだそうだ。 
 フレーネが七歳の時に亡くなった母親に代わって、鉱山で働く父と暮らしていたが、その父親も十歳の時に縦穴に墜落して亡くしたと言った。一旦は施設に引き取られたものの、その後すぐに魔術師の声があることがわかり、街で唯一の老魔術師のもとで住み込みで修行することになったのだそうだ。 
「幼い頃からずいぶん苦労したんだね」 
「ふふ、この世界じゃ、苦労してない人の方が少ない気がします。ケイトは? 家族とか旦那さんとか?」 
「この暮らしを見てればわかると思うけど、私はもちろん独身で家族もない。母親はシングルマザーで父は顔も名前も知らないんだ。母は私が十二の時に私と妹を残して病死した」 
「あ、妹さんが……?」 
「……この子も十年前、十六で」
 口籠ったケイトを察して、フレーネは話題を変えた。 
「えっと、ケイトはお気に入りの場所ってありますか?」
「え?」
「私は、母が働いていた娼館の裏に古井戸があって、辛い時はよくそこに行きました。そこにいれば何もかも忘れられたんです」 
「お気に入りの場所か……。そういえば私は、キャンプの焚き火が好きだな。充電式のランプがあるから必要ないんだけど、つい夜になると火を起こしてしまう」
「ああ、わかりますそれ」 
「本当はここでも焚火をしたいんだけど、燃料の確保ができないので電気ストーブだ」 
 ふふっと笑いあう二人の顔を、オレンジの電熱線が柔らかく照らしている。 
「どんな魔術が得意なの?」 
「私は炎や氷を操る攻撃型の魔術はからきしで、癒しや封印の補助系は得意なんです。亡くなった魔術師の老師から道具屋のお店を受け継いだので、今は故郷で採れた魔石使った魔法道具や魔法薬を作って、それで生計を立てています。近頃は寂れてきた地元より、出張の方がうんと稼げます。お得意様もたくさんできました」 
「へえ、それはすごい……」 
「でも、亜種討伐のチームに入るのは怖くて……」
「それは正しい」 
「ふふ、ケイトにそういってもらえるとホッとします。やっぱり最前線に出る魔術士はエリートでみんな憧れるから、私みたいのは変わり者だって」 
「そうかな? 命の危険があるんだから、怖がるのは当然だと思う。なんだかんだ、勇ましい命知らずはチームでは嫌われる。他人にも平気で無理を強いるからだ。いろんなやつがいるし、それでいい」  
 フレーネは自分のキャリーバッグの中身を見せてくれた。 
 その中には、大小様々の魔石やそれを使って作られた安価なアクセサリーや、小瓶に入った魔法薬が詰め込まれていた。 
「魔法薬使えばいいのに」 
 熱で顔を赤くしたフレーネを見ながらケイトが言った。 
「ケイトが優しくしてくれるのが嬉しくて……」 
 フレーネがいたずらを見つかった子どものようにえへへと笑う。 
「ふふ、売り物だものね。そういえば、魔法薬作れる魔法使いはとても器用だって聞いたよ」 
「いえいえ、まだまだ駆け出しです。でも最近、アクセサリーに使う天然石や魔石を壊れにくいようにコーティングしたり色味を良くしたり、癒し系や興奮系の魔法うた絡めるやり方覚えたんです」 
魔法うたを石に? へえ、そんなの初めて聞いた。すごいね」 
「でも、宝石を加工するのはビッグクラッシュ以前のむかーしからある手法なんですよ。エンハンスメントって言います」 
「なに? セクシャルハラスメント?」 
 ケイトがわざとまぜっかえすと、フレーネが明るく笑った。 
「魔法薬作るときの応用です。なんでもない天然石でも、癒し魔法絡めるとちょっぴり傷の治りが早くなったりするんですよ。癒し系の魔石ならもっと効きます。まぁ、直接の魔法うたや魔法薬に比べると効果弱いですけど、魔術士がいないチームには喜ばれます」 
「なるほど。すごい発明だね。そういえば、フレーネのそのピアス、いい匂いがする」 
 ああ、これはと言ってフレーネが深紅のピアスを揺らした。 
「これは母の形見で、もともとこの石が香料の原料にもなる魔石なんです。脆いからアクセサリーには向かないんですけどエンハンスメントしてあります」 
「ふーん、匂いのする魔石なんて珍しいね……」 
「でももうずいぶん古いから、匂いもだいぶ弱くなりました」 

 異世界との衝突は、世界の崩壊と混乱と同時に、それまでこちらの世界には存在しなかった、様々なものをもたらした。
 ひとつは、魔石の発見だ。
 大規模な地殻変動に伴い、地下資源を大きく損なってしまった人類に、それは新たなエネルギー源をもたらしてくれた。
 姿をそのまま残した古代の亜種が石化したものもあれば、異世界固有の植物由来のものや虫もあった。元が何かはわからないものも多くあって、まだよくわかっていない。ただ普通の石や宝石と違うのは、それらはなぜか、特定の人々の声や音に反応し、詠唱や歌によって様々な働きを引き出せるということだ。千人に一人の割合で存在する、声で魔石の力を引き出す人々を『魔術士』と呼んだ。それらの人々は、能力に応じて様々なランクに分けられた。人類はビッグクラッシュによって『魔法』を手に入れたのである。
 人々の暮らしや復興において、それはなくてはならない存在となった。
 そして、もうひとつは、オゾン濃度の濃い世界で独特の進化を遂げた生物の流入だ。 
 こちらの世界と呼応するように、よく似た特性を持つものも多かったため『亜種』と呼ばれたが、これらはおおむね大型で凶暴で異質だった。高濃度のオゾンを無害化するために大型化したと言われているが、よくわかっていない。問題は、一部の亜種たちがすぐにこちらの薄い空気にも馴染んだことだ。この未知の不気味で奇妙な生物は、圧倒的な力の差で、こちらの生物に問答無用で襲いかかったのだ。これは、復興に追い立てられる人々にとって大きな脅威となった。
 立ち上がったばかりの中央行政府セントラルは、亜種討伐のために、生き残った軍人を必死でかき集めた。そして、万年人手不足の急場しのぎに、各地にギルドを設置して、その管理のほとんどを民間に委ねたのだ。それはその後、独自に発展していった。
 ケイトもそんな寄せ集めのチームで働くフリーランスの傭兵だ。
 あの未曾有の大災害から三十年。人々は曲がりなりにも何とか生きてきた。
「リリスのケイト」
「え?」
 フレーネが翌日、シャワーから出てきて下着姿でうろつくケイトを見ながら唐突に言った。
「ケイトはリリスのケイトなんでしょ?」
 胸に苦いものがこみ上げる。僻地の魔術士にもケイトの悪評は伝わっているらしい。
「安心して。フレーネから精気を吸い取るなんてことはないから」
 私が重症でさえなければね――という言葉は胸の奥に飲み込んだ。
 ケイトには旧世界のユダヤの伝承にある、男の精気を吸い取る魔物の『リリス』という不名誉な二つ名がついている。否定はしない。場合によって、それは本当のことだから。
「そんな……。あなたは私たちの英雄ヒロインなのに」
「へ?」
「あなたの噂あちこちで聞きます。あなたと組んだチームは最高の仕事ができるって。そもそも、チームの女性といえばほとんどが魔術士なのに、女性で剣士は珍しいです。しかも腕は超一流で、一撃必殺で亜種を倒していくあなたは、女神の軍神だって……」
「あはは、すごい買いかぶりだ。でも、噂はあくまで噂でしかないってわかったでしょ? 実際の私はご覧の通り、廃倉庫の片隅に住むケチな女剣士ですよ……」
 両腕を広げておどけて見せると、フレーネはふふっと笑った。
「いいえ、あなたは噂以上でした。美しくて優しくて、そのタトゥ、とてもキレイ……」
「そう? ありがとう」
 ケイトの胴をぐるりと巻きつくタトゥは独特だ。
 細い蔓草か鎖に巻きつかれているように見えるが、実は複雑な模様の文字だった。東洋の万葉仮名に似ていると言われたことがあるが、小さなその島国も識者も、あの災害ですでに失われていた。
 それは、腹を横切る大きな古傷に飲み込まれるように、途中から身体の中に潜り込んで消えている。
「……私のは、妹の遺した唯一の魔法なんだ。だから厳密にいえばタトゥじゃない」
「魔術士だったんですね」
「そういえば、フレーネの痣は生まれつき?」
「ああ、そうです。赤い蛇みたいで嫌なんですけど」
「でもとてもキレイだよ」
「ふふ、そうですか? ありがとう」
 そんな生活が続いた三日目の朝、フレーネがそろそろ帰らなければと言った。
「ああ、そっか……」
「これ、よかったらもらってくれませんか?」
 そう言って、フレーネがバッグの中から涙滴型の緑の石のついたピアスを差し出した。ケイトの目の色と似ている。ピアスは陽の光を受けてキラリと光った。石の真ん中にごく小さな紅い何かの模様がポツっと入っている。 「こんな粗末なテント暮らしで固いパンのお礼にしちゃもらいすぎだ。受け取れないよ」
「命を助けてもらいました。そんなに高価なものじゃないのでこれぐらいじゃ足りないぐらいです。癒しの魔法を絡めてあります。出会った記念にケイトに持ってて欲しいの。私のせめてもの気持ちです」
「わかった、ありがたく頂戴するよ」
「ふふ、よかった」
「またおいでよ」
「はい、この街にはお得意様が多いのでしょっちゅう来ますから、また寄ります」
 そしてフレーネは、突然ケイトの唇に小さくキスした。 驚いたけれど、ふふっと小さく笑うフレーネは可愛かった。
 その日は朝からどんよりと曇り、昼過ぎにはしのつく雨が降ってきた。
 ますます寒さが募る。夜半を過ぎても雨は止まず、雨の音を聞きながら眠りにつくと昔の夢を見た。
 どことも知れない雨の草原を、雨宿り先を求めて歩いている。
 雨はやがて土砂降りになり、たちまち全身がずぶ濡れになった。
 洞窟を見つけて中に飛び込んだ。
 濡れたシャツを脱いで水気を絞っていると、突然後ろから大きな手に口を塞がれ誰かに抱え込まれた。
「……っ⁉」
「シッ、俺だ。動くな」
 男が耳元で鋭く囁いた。男に悪意がないことはすぐにわかった。
 不定形で小屋ほどもある漆黒の靄が、ゆっくりとすぐそばを通り過ぎようとしていたのだ。
 それは動くたびにザワザワと形を変え、邪悪な黒い触手をうねうねと伸ばしたり引っ込めたりしながら、周囲に生き物の気配がないかを探っている。
 そいつがゾロゾロと地面を移動するたびに、足元からガラガラと音を立てて零れているのは、ヒトや動物の白骨だった。
 ──ヤミだ。
 こいつは自在にチューブを操り、神出鬼没で前触れもなく唐突に現れる。
 実体が曖昧で意志が読めない。触れるものの命をただ一方的に飲み込む「闇」と呼ばれるだけの恐ろしい亜種。いや、魔物と言った方がいいかもしれない。こいつは、ビッグクラッシュが産んだ怪物だと言われている。
 ケイトが大人しく息を潜めてじっとしていると、巨体の真ん中が突然パックリと開いた。その、巨大な単眼と思しき白い割れ目には、複数の真っ黒な瞳がある。それはギョロギョロと周囲を見回し、あたりの気配を探っている。
 その時、ヤミの気配にたまりかねたのか、何百羽というコウモリの群れが、ケイトたちをかすめるように洞窟の出口に向かって一斉にバタバタと飛び出した。
 次の瞬間、ヤマアラシの針のようにビュッと伸びたヤミの黒い触手に囚われ、それはあっという間に一匹残らず漆黒の体内に飲み込まれて消えた。バタバタキーキーと騒々しかった洞窟が、一瞬にして静寂に包まれた。
 邪悪な目が、嬉しそうにニィッと弧を描いた。
 ケイトの喉の奥からどうしようもなく悲鳴がこみ上げる。
 しかし、ケイトを抱きとめる背中の温もりが、ケイトの悲鳴をかろうじて押しとどめてくれた。
 コウモリを食らったヤミはそれで満足したのか、洞窟の隅に開いたチューブとともに吸い込まれるように消えていった。
 ケイトは身体中が震えてすぐには動けない。
「……もう大丈夫だ」
 男が耳元で静かに囁いた。
 喋ろうとして口を開くと、一瞬、男の指先が微かに唇を撫でた。
「……っ」
「……すまん」
 不意に自由になって、そいつは姿を消していた。いつの間にか、ケイトの肩にかけられた乾いた上着に、男の匂いと温もりが残っていた。

 ふと意識が外界と繋がった。
 夜明けだ。
 朽ちかけたがらんどうの倉庫の中に日が差し、テントのキャンバスを白く光らせている。
 ベッドを抜け、小さな折りたたみテーブルの上に転がっているしなびたリンゴとモバイルを手にとって表に出た。
「ジン……」
 シャリッと口の中にりんごの酸味と甘みが広がるとともに、ずっと封印していた男の名前を口にした。十年会っていなかった。
 モバイルをタップして地図アプリを立ち上げた。そこに、覚えている何桁かの数字を打ち込んだ。数字を受けてとある場所がマッピングされる。
 その小さな点滅を黙って見つめる。
 過去、何度かそこまで足を運んでそのまま引き返した。
 もう、許されるだろうか──。
 ケイトの胴に絡む魔法のタトゥが、ぎゅっとケイトを締め付けたような気がした。その痛みは切なさに身を焦がした時に似ている。
 サシャ、あんたもジンに会いたい――?
 冬枯れの灰色の桜の巨木は、昨日よりまた少し枝先を赤く綻ばせている。

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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