見出し画像

創作大賞「ドラゴン・シード」#2

2話

 第ニセクター中央行政区───

 三十代前半と思しきスーツに身を包んだ背の高い男が、高層マンションの一室の前でチャイムを鳴らした。
 シンプルだが清潔で快適な二十階建てだ。ダウンタウンに建つ違法建築のアパートとは比べ物にならない。ドアは待つまでもなくすぐ開き、大柄な男が顔を出した。
「待ってたんだマリー、時間どお…り……?」
 男の言葉が途中で凍りつく。戸惑った顔でドアの前に立つ端正な男の顔を見つめた。
「初めまして、モリソンさん」
「……君は?」
「ジンと申します。マリーさんの代理人で、あなたに是非ともお話ししたいことがあって参りました。早速ですが、少しお部屋でお話を……?」
「マリーが……?」
「はい、あなたがマリーさんに執拗に繰り返す悪質なストーカー行為についてですが……」
「し、失礼な! 僕はストーカーなんかじゃ……」
 ジンが自分の唇にスッと指を立てて静かにと合図した。
「あなたは環境省のお役人だ。そのような話をこのままここでするのは、差し障りもあるのでは……?」
 あくまでにこやかにそう言うジンの後ろを、隣人が通り過ぎてゆく。
 モリソンがしぶしぶジンを招き入れた。
 いい傾向だとジンは思った。保身に走る理性がまだ残っている。捨てるものが何もない人間ほど怖いものはない。
 モリソンは四十二歳で結婚歴はなく、母親を半月ほど前に亡くしている。さぞや荒れた室内だろうと思ったが、2LDKの広い部屋は意外に片付いていた。女性を招く予定だったからかもしれない。
 痩せた小柄な老女の写真と、その老女にどこか似ているマリーの写真がびっしり飾られているのは、まぁ、お約束だ。
 十二畳ほどの広いリビングのテーブルには、不釣り合いななにかの工具箱が開いたまま置かれていた。歯科医が歯を削る治療道具のように見える。「これは、彫金の工具ですか?」
 モリソンは工具箱を手早く片付けながら不機嫌にそうだよと言った。
「あなたは近頃人気のジュエリーデザイナーの『M』だとか」
「そんなことまで知ってるのか」
「あなたについて調べられることはなんでも……」
 ジンがにっこり微笑みながら言うと、モリソンは渋い顔で嫌悪をあらわにした。
 鉱物オタクのモリソンは、若いころから趣味で手作りジュエリーを作っていた。もっぱら母親を喜ばせるためだったが、母親が亡くなってからふと思いついてネット販売を始めたら、一気に人気に火がついたのだ。もしかしたら、今は本職の役人の収入を上回っているかもしれない。
「奥の部屋に作業場が?」
「……そうだけど、そんなことより」
「ああ、これは失礼」
 ジンは気を取り直し、勧められるままにモリソンの正面のソファに腰掛けた。
 モリソンは、百八十五センチのジンを若干上回る上背と、少なくとも二十キロ以上はオーバーした体重を持つ大男だ。色あせた砂色の髪は頭頂部が薄くなり、腰のベルトに腹の贅肉が乗っかっている。一言で言って、もっさりと冴えない男ではある。
 母親以外女に免疫のない男が娼婦の優しさを勘違いした。人気ジュエリーデザイナーなどと急にもてはやされ、小金を手にしたこともあるのかもしれない。
 依頼人のマリーは、ダウンタウンで営業する「ナジャム」という娼館の娼婦だ。ある程度この手の客のあしらいには慣れているが、それでも時々たがの外れた客はどうしても一定数いる。店に金を落としているうちはマリーも相手をしたが、執拗に外で会おうと迫り、仕事帰りを朝晩待ち伏せされてはたまらない。店のスタッフが警戒も警告もしたが、ある日、マリーが飼っていた猫の死体が、アパートのドアに吊るされるに至って、とうとうジンのところへ依頼が舞い込んだ。
「……調査官?」
 モリソンはジンに紅茶を出してから正面に座ると、意外そうな顔でジンを見た。
「どうかお構いなく――ええ、セントラルから正式に依頼された捜査官ではありません。したがって逮捕権もない。まぁ、調査官といえば聞こえはいいが、ただの便利屋です。ただ……」
「ただ?」
「法の下、セントラルに厳しく管理されている捜査官にはできなくとも、私のような胡散臭い人間だからこそできることもあると言いますか……」
 仕立てのいいスーツに身を包み、黒髪をオールバックに撫で付けた美しい男が、あくまで穏やかに恫喝すると、ゾッとするほど凄みがある。
「き、き、君は僕を脅すのかっ!」
 モリソンが興奮して声を張り上げた。
 ジンがいきなり、バンッとテーブルを叩いた。モリソンがびくりと飛び上がり、紅茶のカップがガチャンと音を立てた。
「被害者はマリーだ。勘違いすんじゃねえ」
「……⁉」
 ジンが冷ややかにモリソンを見据え、次の瞬間、ニッコリ笑ってこれは失礼と言いながら、傾いたカップを手にわずかに口をつけ、「いい香りですね」と再びソーサーに戻した。
「まぁ、防犯カメラの動画や写真、録音メモなど、証拠は色々揃っていますし、ここだけの話……」
 そう言ってジンは声を一段低くした。
「あなたが当直の時に限って、地質環境課の金庫で保管されていた珍しい鉱物や魔石の一部が紛失しているのは、まだ私の胸の中です」
 モリソンの顔が青ざめた。
「まぁ、あんなもの、マニアじゃなければ見向きもしなさそうだ」
「ぼ、僕は……僕はマリーを愛して……」
「愛は免罪符にならない」
「……っ」
「モリソンさん、このまま今の立場を守り、亡くなったお母様を安心させたいなら、私の指示に従ってもらいます。明日にでもここへ……。あなたが行っても行かなくても私に連絡が来るようになっている」
 ジンは一枚のカードを差し出した。
「精神医療センター……?」
 モリソンがそれを指先でつまんで愕然と呟いた。
 そこではストーカーの加害者を専門に扱う治療プログラムがあるのだ。 「僕は心の病気なんかじゃない!」
「ではどうですか、それを証明するためにも、一度受診されては? あなたがどうしても拒否する場合、今のところ私のところで留まっている情報を、不本意ながら上に挙げるしか……」
「マリーに一度会わせてくれ! そしたらきっとわかってもらえる‼」
「ダメだ」
「なぜだ⁉ ことは彼女と僕の問題だ‼ なぜ関係ない第三者が……‼」
 ジンは大きくひとつため息をつくと、ネクタイを指先で緩め、砕けた口調で話し始めた。
「あんたの極端な行動が、俺のような第三者を招いたんだ。それに、あんたはマリーに出会う前、お手製のアクセサリーで様々な女を釣っては、飲み物に怪しげなドラッグを混ぜて好きにもてあそんだ」
「う、嘘だ! そんなこと……‼」
「無駄だ。あんたの端末からすでに盗撮データは抜いて、俺の手元にコピーしてある」
「い、いつの間に……」
 愕然とつぶやくモリソンにジンがニッコリ笑って言った。
「モリソンさん、今時しかるべきところがその気になれば、個人のプライバシーなどないに等しい」
「ど、どうするつもりだ……?」
「どうも……」
 ジンがカップの冷めた紅茶を、モリソンの目の前でゆっくり床に傾けながらそっけなく言った。高級なラグに染みが広がってゆく。
 モリソンの目が驚きに見開かれる。
「女たちに仕込んだドラッグか? ああ、それとも毒薬? あんたみたいな素人が、証拠を残さず死体の処理をするのはほぼ不可能だ」
「ち、ち、ちがうっ誤解だっ! そ、それはただの香料で……」
「さっきも言ったように、今のところ鉱石の盗みと女たちへの暴行は俺の胸ひとつにしまっておく。幸いなことに女たちは意識を失っていて、知らなければなかったことと同じだからな」
「………か、金か? 金なら……」
 ジンが口の端で皮肉に笑う。
「そ、そもそも、僕がクスリを盛った女たちはみんな売女だ! 金で身体を売る女なんかなにをしても……」
「黙れ」
 ジンが凄みのある目つきでモリソンを睨んだ。
「っ……」
「モリソン、プログラムを受けろ。これが最大限の譲歩だ。だがこれ以下ならいくらでもあるぞ。それでよければあんたの命運は、明日から一変する」
「わ、わかった……」
「では俺はこれで……」
 ジンが立ち上がって部屋を出て行こうとした時、モリソンに呼び止められた。
「ま、待ってくれ。最後にひとつだけお願いがあるんだ」
 ジンが黙って振り向いた。
「これをマリーに」
 モリソンは指輪の箱を取り出した。
「新作なんだ。マリーは僕の作ったアクセサリーが大好きだから」
 ジンはモリソンが差し出した箱を受け取った。箱には金色で「M」のロゴマークが型押しされている。
「そして彼女に、ずっと君を想っているよと……」
「……伝えるよ」
 モリソンの部屋を出て、ジンはふと高層階の外に広がる景色に目をやった。
 高層ビルを中心とする、整然と区画整理された街路が広がり、ビルが途切れたあたりには、ウォールと呼ばれる高い壁が、ダウンタウンとセントラルを隔てている。
 この大災害以降、世界は空間ごとぐちゃぐちゃに入り乱れ、昔の地図はまるで意味をなさず、国境すら失われた。
 ビッグクラッシュから三十年経った今も、世界の多くが果てない混沌に覆われている。
 そして、ダウンタウンの外れにあったあの懐かしいアパートに、あの美しい姉妹はもういない。
 分厚いウォールを越えると、そこはダウンタウンだ。
 ジンは、ネクタイを取ってポケットに押し込み、撫で付けた髪を手でグシャグシャとかき回した。折りたたんで腕にかけたアーミーコートを羽織れば、堅苦しいスーツは隠れ、たちまちダウンタウンに馴染んでしまう。
 依頼人のマリーと待ち合わせているバザールの入り口付近のカフェに急いだ。
 モスグリーンのパラソルの下にあるテーブルにマリーはいた。胸元の開いた花柄の派手なワンピースはよく目立った。
「ジン!」
「すまない、待たせたかな?」
「時間通りよ。どうだった?」
「まだ楽観はできない。俺の脅しがどれほど効くかは、彼の精神状態にかかっている」
「どういうこと? ぬるいやり方で脅したの? コテンパンにやっつけちゃえばいいのにあんなやつ」
「まぁ、この手の犯罪はそう単純でもないさ。窮鼠猫を噛むというだろう?」
「きゅう……なに? なんで猫が出てくるのよ?」
 猫と聞いて殺された愛猫を思い出したのか、マリーが顔をしかめた。
「ああ、すまん。まぁとにかく、追い詰めすぎるのは良くないということだ」
「ふーん、そんなものかしらね。こっちだってあいつのせいで散々怖い思いしたわよ」
 マリーが不機嫌にワインのグラスを煽った。
「まぁ、とにかく、精神医療センターから連絡がきて、彼がきちんと治療プログラムに参加するまでは経過を見るさ。それまでは、君との緊急連絡用のホットラインも繋がるようにしておく」
「つまり、あんたとの繋がりはまだ切れないってことね?」
「まぁ、そういうことだ」
「ふふ、ジン、あんたがずっと私のそばにいてくれれば安心なんだけど……?」
 上目遣いで意味深に見上げるマリーに、ジンが素っ気なく答えた。
「二十四時間警護は別料金だ。その場合は人手がいる。依頼料が跳ね上がるがそれでもよければ、またモーグに言ってくれ」
「んもう、そんなこと言ってるんじゃないわ。わかってるでしょ、ジン?」  胸の谷間を強調するように、マリーがテーブルに肘をついた。
「お金はいらないって言ってるのよ……?」
 ジンはそれを無感動に見ながらモリソンに預かったもののことを思い出した。小さな指輪の箱をポケットから取り出した。
「そういえば、これをモリソンから預かった。いつも君を想っている、と」
 マリーはジンの反応の薄さにムッとして、不機嫌にそれを受け取ると、パクッと箱の蓋を開いた。凝ったデザインの様々な種類の石がついた指輪だった。
「指輪なんてつけるわけないじゃないキモいのよ。役人なんてどこまでいっても的外れよね。今までもらったものも全部売っちゃったわ。案外いいお金になった。これも慰謝料代りね」
 そう言って、マリーは指輪の箱を無造作にバッグに突っ込んだ。
「……じゃあ、俺はこれで」
「ねえ、もう少し付き合ってよ!」
 マリーが引き止めようとしたが、ジンはひらひらと手を振ってそこを後にした。

 国名を失い番号が振られ、ただ「セクター」と呼ばれる大小様々な都市は、中心部のセントラルより辺縁の方が賑やかだ。
 一番外側のスラムにいるのはいつ死んでもおかしくない連中ばかりだが、その手前に広がる複雑に入り組んだバザールは、ありとあらゆる店が軒を連ね、テントや屋台が並び、常に雑多な人々で溢れ返っている。食い物の匂いが混じり合い、数カ国語が飛び交い、笑い声に時折怒号も混じる。第二セクターのバザールは世界有数の規模を誇っている。
 ジンがテントや屋台が並ぶ狭い路地を歩いていると、強いスパイスの匂いが鼻をくすぐる。食材を買った同じ店の別の棚には、モバイル仕様のノートやタブレットが無造作に積まれている。特に目当てのものがあるわけでもなく、漫然と電子部品を漁っていると、顔なじみの親父が声をかけてきた。 「あんた愛用のコルトの実弾が箱で入ってるよ。フジヤマの一級品だ」
「マジか。いくらだ?」
「そりゃアンタ次第だね。いくら払う?」
 今夜のおかずから弾薬まで。文字通りなんでもありのこのイかれた店の親父は商売上手だ。ジンは苦笑しながら相場の五分の一から交渉を始めた。
 復興途上のこの世界では、人々のライフラインを含むありとあらゆるものが不足している。資源や設備に加え、それらを扱う優秀な人材も。この手痛い損失は、生き残った人々を様々な方角から苦しめた。
 慌てて立ち上げられた臨時政府が、この三十年の間に入れ替わり立ち代わり、万年人手不足に喘ぎながら、中央行政府セントラルとしてなんとかリーダーシップをとってきたが、緊急問題は常に山積していた。
 それら諸々に関連し、昔はふんだんに使われた武器弾薬なども高騰した。あの異様な未曾有の大災害ビッグクラッシュは、世界中の武器庫の弾薬をただのおもちゃに変えた。災害直後、なぜか火薬を無害な黒い粉に変質させてしまったのだ。膨大な弾薬がほとんど使い物にならなくなった。材料を集めて調合すればいいのだが、人類には再びそれを十分作れる余力がなかった。今では徐々に市場に出回りつつあるが、高価なうえに粗悪品が多い。そこで、亜種と戦う傭兵達は、剣や槍を使った昔ながらの接近戦を余儀なくされたのである。
 そういった事情をこの店の親父ハムザはよくわかっていた。
 結局、ジンは二十分に渡る交渉の末、なんとか一割引きで銃弾一箱を手に入れた。
「またヨロシクね」
 そう言って、ハムザが福袋をひとつつけてくれた。
 外はすっかり日が暮れていた。
 あちこちで呼び込みが声を張り上げている。
「チーズだ、新鮮なゴート・チーズだよ! お、ジンじゃないか、買ってけよ!」
「せめて十分の一の値段になったら声かけてくれ」
「オー! それじゃこっちは飢え死にするしかねえよ! おまえには人の心ってものがないのか!」
 粗悪な合成チーズを法外な値段で売ってるくせによく言うぜ、という言葉を飲み込んで、ジンは笑ってそこを後にする。
 モーグの酒場へやってきた。
 店主のモーグは元軍人の政府のギルドマスターだったが、一部の特権階級の専横に耐えかね十年前に一線を退いた。ところが、彼の引退を惜しんだ関係者らの強い要望に推され、今はこの酒場を経営しながら、民営のギルドマスターとして様々な依頼を請け負っていた。世界中に点在する玉石混交のギルドの中では、破格に信頼の置けるギルドだ。
 モーグはまだ来ておらず、バーテンが一人で切り盛りしていた。
 ここが窓口だったモリソンの一件を報告しようと思っていたが仕方がない。酒を飲まないジンは、ジンジャーエールを一杯頼み、 聞くともなしに客同士の会話を聞いていた。
 最近この辺りで急増している男ばかりの不審死に関する噂だ。
「突然ガタガタ痙攣し始めてよ、あっという間に意識失ってそのまんま死んじまうそうだ」
「俺の同僚のソジュンも、こないだ俺の目の前で急死しちまったんだ」
「マジか」
「へえ、もう少し詳しく聞かせてくれよ」
 ジンがジンジャーエールを片手に話に割り込むと、男たちは気さくに応じてくれた。男は元葬儀屋だったらしい。
「その彼はなにか持病とかあった?」
「そんな話は特に聞いたことはなかったが、俺たちは葬儀屋だろ? 最近流行りの行き倒れの遺体をよく回収してたんだよ。感染性のウィルスや菌が出たって話は聞いてないから安心してたんだが、死んだソジュンはありゃ亜種の仕業だって言ってた」
「へえ、そりゃまたなんで?」
「俺はまだ二年目だからよくわからないが、ソジュンみたいに長年ヒトの遺体を扱ってると、大体死因が分かるって言うんだ。同じ病気で死んだ人間は同じ匂いがするとかなんとか……」
「ああ、聞いたことがあるな。糖尿病患者は甘い匂いがするとか……?」
「確かに病気によっては特有の匂いがするものがあるが、そういうんじゃなくて、ソジュンは事故死と自殺体を見分けるのも巧かったし、見た目ではわからなくても、亜種にやられた遺体は百発百中で当ててたよ。実際、ソジュンのアドバイスで捜査官が検視に回すこともあった」
「そりゃすごい。検視官みたいな観察眼に優れてたってことか?」
「というより、何かの勘がいいんだ」
「へえ……」
「でもまぁ、そんなソジュンが死んじまうぐらいだし、この不審死はマジでやべえ。俺はそれですっかりおっかなくなって、その後すぐに葬儀屋を辞めたよ」
「そうか」
 細かいことをさらにいくつか聞いて、一杯づつビールを奢って礼を言うと、モーグの酒場を出て、さらに一本薄暗い路地裏に踏み込んだ。
 そういえば近頃、この道にいつもいる母娘の姿がないことに気づいた。
 どう見ても成人前だろう痩せた娘と母娘で通りに立つジエウ。娼婦がふいに姿を消すなんてことはよくあることだ。
 暗い夜道を少し歩くと、鉄条網で囲われた廃墟になったビルがある。ガラクタが積み上がった、敷地の片隅にある錆びたトタンをどけると、直径二メートルほどの黒い穴がぽっかりと口を開いていた。チューブだ。
 ほぼ全てのチューブは危険度に応じて魔方陣で閉鎖、または厳重な管理下におかれている。
 だが、まだ知られていないチューブが無数に存在していて、移動距離も大きさもまちまちだ。国境を越えるほどの長距離をつなぎ、景色を唐突にポッカリと削る数十メートルもの巨大なものもあれば、ごく近距離を繋ぐうさぎの穴ほどのものまで様々だ。 距離はチューブの大きさに比例するらしい。また、唐突に消えたり現れたりすることもあって油断がならない。開いてから七十二時間以上経過すれば、大体は安定しているとみなされる。
 善良な市民は見つけ次第、速やかにセントラルに報告する義務があるが、善良さはおしなべて個人の選択制で、おまけに多種多様だ。
 目の前にあるのは、何年も前にたまたまジンが見つけた。もちろん申告などしない。周囲を伺い、誰もいないことを確認して穴に飛び込んだ。
 暗い灰色の壁が続く向こうに、オーブがふわふわと飛び交う。円形をしたトンネルの中で軽い吐き気と頭痛がジンを襲う。そして、いつもの通りチューブを抜けると一分も経っていなかった。目の前の藪をかき分けながら進むと、途切れたあたりに小さな湖が広がっている。
 周囲は山と深い森に覆われ、そのほとりに小さなコテージが建っている。
 そのコテージは、人が訪れることのないジンだけの秘密の住処だ。
 まるで水の中に閉じ込められた気泡のように、この辺り一帯が他の空間から完全に孤立している。ジンが見つけたチューブ以外、ここへはどこからも行き来できない。試しに行けるところまで歩いていくと、いつの間にか再び元の場所に戻っている。ジンの体感で行けば半径二キロ程度のように思う。ビッグクラッシュの混乱は、世界中のあちこちに、こんな奇妙な空間を無数に作った。
 帰ってきてすぐに、コテージに備え付けのストーブに火を入れたり湯を沸かしたりしながら、やっと荷物を作業台の上に置こうとして、うっかりハムザの店でもらった福袋を破いてしまった。バサバサと落ちた電子部品や何かのアイテムを両手でかき集め、まとめて壁際の棚の箱に突っ込んだとき、突然扉がノックされた。
 コンコン───

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

前話
次話 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?