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淀ちゃんの最期

 大阪湾に迷い込み世間を賑わせたマッコウクジラの「淀ちゃん」が先日、命を終えていった。

普段は間近で見る事のない大きな命に多くの人が心を奪われ、その命の最期に思いを寄せた。

死骸はガスが発生し爆発の恐れがある事などから海に沈める事となった。

作業船から重しをつけられて沈んでゆく淀ちゃんの姿に、僕は少しの憧れを抱いたのである。

クジラの死骸が海に沈むとその身体を多くの魚達が食べるだけでなく、その大きな身体の残骸が長い時間をかけて、あらゆるの生物の棲み着くある種の生態系となっていくそうだ。

淀ちゃんの身体もそうなっていくのかもしれない。

僕が憧れを抱いたのはそこだった。

あらゆるいのちの生態系となる様なものを「死骸」と呼ぶだろうか。

その肉を食べた魚も、骨に棲みつく微生物も、そしてその微生物を食べる他の魚も、それが「淀ちゃん」だった事など知らない。

しかし確かにその淀ちゃんに生かされているのだ。

  「すべての生は死を前提に存在する」

昨年、大学のキャンパスで切り付け事件に遭われた社会学者の宮台真司氏があるとき語っていた言葉である。

死は単なる虚しい終わりではない。あらゆる生の前提となっていくような、豊かな終わりであるはずだ。

「僕もあんな風に死ねたら…。いや、どんな死に方をしてもきっと大丈夫なんだろうな。」


深い海へと沈みゆく淀ちゃんの姿にそんな事を思ったのでした

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