家族の風景
目を覚ますと倦怠感は足から指先まで滞りなく流れていた。首を動かすことさえも億劫なので、イヤホンを耳につけ音楽を流す。スマートフォンからは昨日聞いていたハナレグミの「家族の風景」がそのまま流れ始めた。
キッチンにはハイライトとウイスキーグラス
どこにでもあるような家族の風景
ギターのアルペジオが泣き出しそうだった。優しい声がじんわりと身体中に届いていく。弦の響きは鼓膜の先にある何かを揺らし、重なるようなエレキの音が心の奥深くの琴線に触れた。外はもう明るくなり始めカーテンの隙間から細く漏れてきた光がキッチンまで届いている。白い光は薄暗い部屋の真ん中を靄のように照らし出していた。床に脱ぎ捨てられた服がそこに見える。昨日は結構チューハイを飲みすぎてしまったみたいだ。テーブルの上にいつもは飲まないレモンの絵柄をした缶が三個も並べられている。なんとか体を起こすと月曜日の朝は澄んだような空気で僕を迎え入れてくれた。目をシンクに向けると昨日食べた食器がまだ片付いておらずそのままになっていた。大きな黒色の皿に銀色のフォークが一つ。申し訳ない程度に水が溜められている。昨日何を食べたのか記憶がなかった。頭を覚ますためにコーヒーが飲みたくなりベットを降りた。煤けてしまったポットに水を入れ火をつける。ガスコンロは湯が沸くまでの時間が長く感じた。実家がIHだったので余計にそう思うのだろう。火をつけた後、体が重たくて再びベットに横になりぼんやり天井を見つめた。向かいの本棚には赤い時計が六時を指している。こんな時間に起きるのは逆に不健康なのかも知れない。
スマホを見ると昨日の夜に父親から連絡が来ていた。生存確認らしい。
元気か?
すぐに返信する気力が無かったので画面を裏返してテーブルの上に置き、曲に耳を傾け続けた。実家は記憶の中でも遠かった。不恰好なほどに大きいリビング。飾りがなく殺風景なテーブル。白いキッチン。グレーの食器棚。茶色の鍋敷き。そこにある家族の肖像。そういったものが少しずつ思い出せなくなっている気がした。ぼんやりと浮かぶ十九年間の塊は徐々に体から離れていく。年齢を考えれば正常なのかも知れなかった。いつまでも子供の立ち位置に居座ることは出来ない。年を重ねるというのは自分の世界を持ち守っていくことだ。
いつかは僕も家族の風景を作るのだろうか。結婚という言葉は遠くから小刻みに僕を呼んでいた。二十年後、三十年後を少し想像してみる。木目の着いたリビングで母親が娘と息子を呼びパスタを取り分ける。それぞれ赤、黒、青の食器。好みの音楽を交互にかけ紹介しあいながら食事を進め時折笑いが訪れる。どこにでもある風景。心休まるそんな風景。
曲が終わりもう一度再生ボタンを押す。朝の冷たさは足先を震えさせた。寂しさがどこからか襲ってきて横になった体は温もりを求めている。風景にいて欲しかった人はもう想像できなくなっていた。二人で寝ていた時は狭く思えたベットは広々としていて寂しかった。目の前の本棚の下にはたくさんの本が積まれていて一つ一つはよく見えない。出会ってきた人たちはあんなふうに積み重なっていくのだろうか。寝起きの頭にはそれに重みを感じることが難しかった。お湯が沸騰した音がイヤホン越しに響いてきて慌てて火を止めに行く。コーヒーを入れ少しずつ飲んでしまうと体は少し温まった。食器を洗うついでにキッチンの整理をする。使わない皿を下に片付けてしまい、空いたスペースに箸入れを置いた。下のゴミ袋を覗くとS&Bのパスタソースの袋が捨ててある。
ああ、そうかたらこパスタだったんだ。
昨日の夕飯と共にいつかの休日の記憶が溢れた。あの時は一緒に駅前のスーパーに買いにいったんだっけ。キッチンは二人で立つには狭く押し合いだった。断片的な風景が瞼の前に浮かび、隣にある穏やかな輪郭がゆらゆらと揺れて笑ったような気がした。しばらくすると白っぽい綺麗な指はゆっくりと流れていき玄関の方に消えて行った。側にはドラムの規則的なリズムと薄暗さだけが残り、僕の中にあった僕より大事なものは見えなくなった。
眠気が訪れ僕はゆっくりとベットの上に戻った。外に出るまでにはまだ時間があった。朝食を作る必要があったがもう少しだけこのまま横になっていたかった。目の端に映った埃はほんの少し朝日に反射してそこに留まり続けていた。