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9回目:「戦える?」を一旦忘れて

現代人はよく「太極拳って実戦に使えるの?」と聞く。しかし、理系人としては、まず「実戦って何?」と聞き返したい。なぜかというと、前述のように、サバイバルのための「死活問題」の実戦もあるし、内部の切磋琢磨のための「勝負」の実戦もある。さらに、巷の「ストリートファイト」もある。いったい現代人は、どこまでの実戦を意識してこの質問をしているのか、まずそれを確かめたい。

次にそもそも「〇〇拳って実戦に使える?」という質問自体がおかしい。実戦なら、特に命に関わる戦いなら、とっさの瞬間で勝負か生死がつくのだろう。ほとんど、「〇〇拳」や「〇〇道」とかの特徴のある技を出すような状況ではない。漫画みたいに、技を出す前に、大きい声で「ペガサス流星拳」を叫ぶやつは、実戦にはすでに死んでるだろう。まあ、1回目でも話したが、漫画や映画を一旦忘れましょう。次にこういう質問されたら、真顔で、「太極拳よりは、北斗神拳のほうが実戦に使えると思う」と答えばいい。

まあ、仮に、ここの「実戦」をボクシングのようなリングと考えてみましょう。実際の1950年代、香港で行った「呉陳比武」のビデオを見てもわかる。マスターである二人の試合は、5分間も続かない。「子供の喧嘩」みたいと言われるのもしょうがないが、これは「実戦」のリアリティである。女子バレーが人気があるのは、スパイクがなかなか決まらず、ラリーが多く、鑑賞価値があるからだ。男子バレーのスパイクは一発でだいたい決まるから、観客にとってはつまらないかもしれないが、実力そのものである。戦うという「実戦」は、バレーに例えると、男子バレーに近いものだと思う。

だいたい、パンチか、蹴りか、投げかで勝負がつく。そのパンチや、蹴りや、投げの中に、普段訓練される武道のスタイルが混ざっているケースもあれば、まったくないケースもあるだろう。

そもそも、「太極拳」のような中国伝統系武術は、使える「技」を教えることに興味がない。ボクシングみたいなルールの明確な現代スポーツでは、ルールに許されるパンチなどを普段の訓練で教えられるが、中国伝統系武術の一種である太極拳は、目に見える形の「技の使える」を教えるのは目的ではないのだ。なぜかというと、リング上のようなルールのある「実戦」を想定してないから。それよりは、ルールのないいろんな「実戦」を想定しているから、一つの「技」や方法をこだわらず、あらゆる方法で、効率的に使えばいいのだという基本思想になる。ということで、「技」の代わりに、体に叩き込んだいろんな「特別な」「習性」を教えるのだ。

例えば筋力に頼る代わりに別の何かに頼る「習性」。筋力は年取るによって、いずれ衰えるから。
例えば、直接力で対抗する代わりに別の方法で対抗する「習性」。力の対抗は、男女老若の先天の身体条件に左右されるから。
例えば、体全体の安定を求める代わりに軸だけに安定を求める「習性」。軸の安定は、筋力じゃなくて、バランス力に左右されるんで、バランス力は筋力より維持しやすい。
例えば、局部の勝敗よりは全体の状況に注目する「習性」。これは、もはや「哲学」、人生すべてに関わる。

ほかにもいろいろあるが、これらの「習性」は人間が生まれつきのものと真反対なものが多いが、「太極拳」のいろんな練習法から時間をかけて習得できるだろう。そして、それが体の「習性」になってから初めて、実戦のとき、脳を経由せずそのまま「普通」のパンチやキックに反映される。これが太極拳の「使える」という意味だと理系人の私は解釈する。その根拠は後の回で徐々に説明させてもらう。興味のある方は、ぜひフォローお願いします。笑。

しかし、パンチの「太極拳」っぽい出し方は、脳を経由せずにできていても、それは、できるかできないかの問題で、やるか、やらないか、つまり相手を攻撃するか、しないかの意思決定は、やはり脳で決めなければならない。ここで、もう一度前回の質問をする。あなたは、躊躇せず、相手が失明の危険があるのに、相手の顔にパンチできる?あなたは、躊躇せず相手が二度と歩けない危険があるのに、相手の膝関節を一蹴りで折らせる?


Chris StengerによるPixabayからの画像

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