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10回目:「相手を傷つけること」を一旦忘れて

戦場から帰ってきた人間は、心に傷が残る者がいる。これはPTSDという心的外傷後ストレス障害である。特に人を殺めたことや、殺戮の現場を見たことなど、ストレスの原因になる。だから、米兵が帰国後、ベトナム戦争症候群や湾岸戦争症候群などがある。

平和な現代社会に暮らしている人間は、そう簡単には人を傷つけることができない。それは法律、道徳、教育などなど自制心、すなわち理性による制御があるから。だから刑事の専門家によると、大半の傷害事件はとっさのことで暴れて理性を失った結果で、計画性のある殺人は割合が少ないそうだ。しかし、この普段許されない「人を傷つける」行為は、逆に人の心をくすぐる。(故に「東京リベンジャーズ」が流行るか。笑)故に、格闘技の試合は、ある種現代社会では一般人のストレス発散の出口にもなる。特にたまに血が流れるボクシングやプロレスは、人気がある。一種、古代ローマの闘技場の延長であろう。

プロレスは演技がいろいろ挟まれているが、ボクシングは眉骨に近いところ血管が破れやすいとか、鼻の骨が折れやすいとか、ほんとによく血が出る。それでも、選手たちは、戦い続ける。敬意を払うと同時に、私はその選手たちを恐れている。スポーツといえば、スポーツ精神とかいろいろ歌えられるのだが、水泳や体操やバレーボールというスポーツを見ている人と、ボクシングやプロレスなどの格闘技系スポーツを見ている人の心情は、私は、たいぶ異なるのではないかと思う。スポーツの訓練や、競技の中でできた「傷」と、直接相手をパンチしてできた「傷」、同じとは思わないから。

やはり格闘技ベースのスポーツは、残酷さが残っている。命を失うリスクを極限に抑えた、古代ローマの剣闘士ではないかと。

しかし、遠い古代では、ローマの奴隷はともかく、庶民の命はそこまで大切にされてなかった。そもそも前述のとおり、平均的には、庶民は30代で死ぬ。近世になって、だんだん人の寿命が長くなって、ルネサンスや、産業革命や、民主主義など、庶民の命もだんたん尊重されるようになった。では宮廷の貴族は、どうだろう。実は、古代でも現代でも貴族たちは庶民よりずっといい暮らしをしていた。食料を心配する必要がなく、身の安全も護衛で守られている。そのため、「武」にはそこまで執着心がない。王朝を最初奪取したころは、まだ「武力」を保とうとしていたが、だんだん怠けていて、最終的に、純粋に鑑賞する側の人間になる。ということで、逆に「サバイバル」の危機に常に直面する庶民である武装集団のほうが、「武」の技術が進んでいるのが、十分ありえる。

面白いことに、太極拳の歴史を真面目にみると、庶民から貴族へ、そして貴族からまた庶民へ戻るルートが見える。

今の世の中で習える楊式ベースの太極拳のルーツは、公になった歴史は、実は約百年前の宮廷の貴族の間で流行っていた拳法にまでしか、たどり着かない。それが楊露禅氏が民間武装集団陳家溝から学んだものを宮廷の王子や護衛たちに教えたのが始まりだったと言われた。その以前は、すべて前述のように民間武装集団の中でしか伝授しないので、どんなものだったのか、いろんな説があるが、特に客観的な証拠を探し出すのが難しい。だって「秘伝」というものは、それなりに秘密主義を徹したものであろう。当時の清王朝はすでに建国何百年も立ち、そこまで戦争もなかったし、「八旗子弟」と呼ばれた清王朝の貴族たちは、すでに体が怠けていた。でも、貴族は、さすがに貴族だから、目が肥えていた。適当なものは、彼らを魅了できるわけがない。そのため、楊氏もいろいろ貴族相手の身に合わせた内容を教えただろう。貴族たちが飽食後の運動不足を解消できて、ちょっと勝負ができる面白みと「神秘さ」が宜しいだろう。と勝手に推測した。

血が流れることがない、お互いちょっと体を触るだけで、相手が重心を失う。負けた人が何歩下がり、勝った人は「は、は、は」と余裕のある笑い。これは、なんて優雅で風流だろう。まるで、体でやる「囲碁」ではないか。

これは今の時代の人間が運が良ければ、辿り着けられる一番古い「推手」の本来であるだろう。「戦う?」あたしたち貴族はいたしませんよ。(デヴィ夫人風。笑)

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