【スクリーンに吠える】 完全版


映画の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹するためでもない。映画の本来の目的はむしろそれらのものを通じて、人心の内部に顫動するところの、感情そのもの、本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

映画とは、感情の神経を掴んだものである。活動する心理学である。

すべてのよいシーンには、理窟や言葉で説明することの出来ない一種の美観が伴う。これをシーンのにおいという。(人によっては気韻とかいうだろう) このにおいは、映画の主眼とする陶酔感的気分の要素である。

においの希薄なシーンは、映画として価値のすくないものであって、いわば香味の欠いた酒のようなものである。こうゆう酒を私は好まない。ショットの表現は素樸なれど、シーンのにおいは芳純でありたい。

映画鑑賞者に希むところは、スクリーンの表面に表れた表象や「ことがら」ではなく、内部の核心である感情そのものに感触してもらうことである。 

登場人物の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他のセリフやアクションでは現しがたい複雑な特種の感情を映画は編集のリズムによって表現する。しかしリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを感知することの出来る人とのみ映画は、手をとって語り合うことができる。

映画は一瞬間における世界の産物である。ふだんにもってる所の、ある種の感情が、電流体のごときものに触れて始めてリズムを発見する。

この電流体は映画監督にとっては奇蹟である。映画は予期して作られるべきものではない。


私どもは時々、不具なこどものようないじらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。そういう時、ぴったりと肩により添いながら、ふるえる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる隣人がある。その手の温もりが映画である。

私は映画を思うと、烈しい人間のなやみとそのよろこびをかんずる。映画は神秘でも象徴でも鬼でもない。

映画はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。

映画を思うとき、私は世相のいじらしさに自然と涙ぐましくなる。

スクリーンに吠える映画監督は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する監督の心に、スクリーンは青白い幽霊のような不吉な謎である。

映画監督は遠吠えをする。

映画観賞者は観賞者自身の陰鬱な影を、映画館の客席に釘づけにしてしまいたい。その影が永久に観賞者のあとを追って来ないように。


            令和元年 6月25日                



 

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