運転手さん、ありがとう
家内と2人で山に行った帰り、駅に着いた。時刻表を見ると、電車は1時間に1本ほどで、次の電車が来るのは30分後くらい。
駅前には、見事に何もない。唯一あった売店は一昨年閉店したと貼り紙がしてある(一昨年の閉店の貼り紙がまだ貼ってあるのだ)。
広い駅前広場のベンチで時間をつぶして、そろそろかなと思って家内に
声をかけ、階段を上ってホームに出た。
ところが、電車が入ってきたのに、家内が来ない。
「お母さん、早く!」と階段の下に向かって呼びかけると、「はーい」と
返事が返ってきたので階段の下までは来ているようだ。
私に気がついて、電車の運転手さんが、まだ人がいるのかという感じで
こちらを見てきたので、「すみません、すぐ来ます」と言ったら、頷いてくれた。
そして家内が階段を駆け上ってきて、2人で電車に駆け込むと、すぐに
ドアが閉まって発車した。
待ってくれたのは、数秒か、あるいは10秒くらいだったかも知れないが、その長さではない、運転手さんが気を遣ってくれた。
その心遣いが有難かった。
家内だけでなく、私自身、会社を辞めて、時間に追いまくられるような
生活から開放され、時間の感覚が随分ゆったりとしてきた。
今日できなければ明日でいい、あくせくすることはない。
こういう生活になって、気持ちに余裕が出てきたようである。
それに、少しぐらいはいいじゃあないか。山手線じゃないんだ。
確かに、こう言いたい気持ちは私にもある。
山手線、2分30秒に1本!
芸術的と言うか、異常である。
ここまでするか?
タイのアユタヤに行ったとき、電車の出る時刻に遅れそうになって駅まで
駆け込んだら、電車がでるまでに1時間半くらい待たされた
アユタヤは始発駅なのに、である。
ロンドンの地下鉄は時間通り来ない。
では、時刻表は何のためにあるのか。
電車がどういう間隔で走っているかを知る目安なんだという。
電車だけではない。
バンクーバーにマラソンに行ったとき、時間になってもスタートしない。
スタート時間を過ぎているのに、選手が遠くから、スタートラインに向かって、まるでピクニックのようにのんびり歩いて来る。
一体、どうしたのかなと見ていると、いきなり周りが走り出した。
どうやらスタートしたらしい。
これでも国は潰れないのだ。
効率や便利さをギリギリまで追求することだけが、社会のあり方ではない。
でも、今日の私たちだけは、これを言ってはダメでしょ。
運転手さんや、他のお客さんに迷惑をかけていい筈がない。
ゆったりとした時間を楽しめるようになって、それはいいことなのだが、そうではない時間にドギマギしてしまう。
ゆったりとした感覚に身を任せながら、締めるところでは締める。
この辺の使い分けが生活の極意かも知れない。