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    一ノ関と遠野の旅

 
 一ノ関に出かける用事があって、一ノ関で用事を済ませ、遠野まで足を伸ばしてきた。
 一ノ関に行くのは何年振りだろう。もう10年以上経つかも知れない。
そこで、ホテルで荷物を解いた後は、まずは願成寺に墓参りに行く。
すると、ホテルでフロアが一緒だった人も同じ方向に歩いていく。
聞くと、その人も願成寺に行くのだという。今は東京に住んでいるが、
元々は盛岡の出身で、一ノ関に来るのは1年ぶりなので墓参りに行くのだ
そうだ。
 こんな奇遇というのもあるもんなんですねと言い交わしながら、墓所の
前で別れた。その人は、墓の斜面を上の方まで登っていった。
 家内の両親が眠る墓では、旧い夫婦茶碗と紙コップが2つ置かれていたが、中の水がいくらか濁っていた。先月、家内と娘が訪れているので、
その時に紙コップを持って来たのかもと思ったが、帰ってきて聞いてみるとそうではなかった。
 墓石を洗い、無沙汰を詫びて、家族の近況を報告する。みんな元気で
やってます。見守っていて下さい。
 本堂にお参りした後、大町に向かう。ここには北上書房という、本の
品揃えがしっかりした本屋がある。だが、まだ5時30分なのに店は閉まっていた。人通りがほとんどないので、店を閉めるのが早いのだろう。
 もう少し歩くと、田村町の梅茂登に着いた。
6人くらい座れるボックス席が幾つかと小上がりがあり、ボックス席が
いくらか埋まっていたが、一番奥の席に案内された。
明日、一ノ関ではハーフマラソンの大会があるので、もっと混んでいるかと思ったのだが、客は地元の年寄りばかり。静かだ。
この店は駅から歩いて15分ほどだと思うが、それでも、遠来の客は来ない
らしい。
だが、おかげで、こちらはゆっくりできた。大きな窓から庭を眺めていると、子どもたちが小さかった頃を思い出す。この店に連れてきてもらって、エビフライを食べるのは、子供たちは勿論、若夫婦にとっても大したご馳走だった。
 梅茂登を出た後は、ベイシーに向かう。今年の初めから店を開けていないという噂だが、行ってみると矢張り電気がついてなくて真っ暗だ。

 まあ、仕方がないかと思いながら店の傍まで歩いていくと、かすかに音が聞こえる。おや、と思い壁際まで近づいて耳をそばだてると確かに音が
聞こえる。店は開けてないけれど、中ではレコードを回しているのだ。
こうやって、毎日回しているのかと思いながら、しばらく聞いていたが、
ふと気がついて壁を離れた。困った年寄りだ。
 ベイシーの傍には、知り合いの大店がある筈なのだが、分からなかった。黒塗りの印象があったのに、そのような建物はなかった。
 
 翌日は、午前に用事を済ませ、遠野に向かう。
 花巻で釜石線に乗り換えると、驚くほど混んでいる。ローカル線でこんなに混んでいるのは初めてかと思うほどだ。それでも、ひと駅ひと駅毎に、
少しづつ空いていき、座れる席が見つかった。
 しばらくすると外国人が何人か乗ってきて、一人の女性が私の対面に
座った。いかにも話したそうにしているので、どこから来たのか聞いた。
オーストラリア。家族4人で4週間の日本旅行だという。
尾道、京都、日光に行き、これから遠野で4日間過ごすという。
 遠野で4日間? 私は日本人だけど1泊だ。妹と2人、ガイドブックを
睨んで決めたという。BBQが楽しみだが、妹はヴィーガンだと言って
笑っている。
 妹さんの方は、WI-FIの具合が悪くて、スマホの翻訳機能で四苦八苦して
いる。
 四方山話をしているうちに沿線の緑が濃くなり、河幅も広くなったようで遠野が近づいてきた。
 お隣が妹さんに「ご機嫌よう」という言葉を教えたらしく、2人で「ご機嫌よう」を繰り返している。降り際、私も「ご機嫌よう」と言うと、
ニコニコしながら「ご機嫌よう」と答えてくれた。
 
 遠野の駅前は随分広い。遠野と言えば「遠野物語」で山奥のイメージで
来たのだが、とんでもない。旅館までの道幅は広く、両側の建物も間口の広い店構えが並んで堂々たるものである。

大工町というから、武家地ではないようだが、城下町には違いない。
遠野町は、かつて南部藩の御三家の城下町だったのである。
 
 博物館などはそろそろ閉まる時刻になったので、街中を散歩していると、「子ども本の森」というのがあった。旧い商家の建物を利用して作られた、児童書専門の図書館のようで、本棚が壁いっぱいに広がり、天井まで伸びている。こんな空間の中にいたら、本を読まなくても、満ち足りた気分になるだろう。

閉館まで居ては迷惑なので、適当に引き上げて、また歩いていると、市役所に出た。この建物は木材をふんだんに使い、正面に設けた木組みによる庇が圧倒的な存在感だ。こんな庁舎もあり得るんだと感じ入った。

 夕飯のときには、食堂でCATVを流していて、先日行われた流鏑馬の様子を紹介していた。食堂の隅には、流鏑馬の当り矢も掲げてある。城下町ならではの神事だろう。

 翌朝は1時間ほど散歩する。朝は冷えると聞いたので長袖のシャツを羽織った。小さな川があり、来内川という。ライナイという語感が珍しいが、アイヌ語である。柳田国男の旧宅がある。

 寺がいくつか固まっている。昨日、旅館の主人が、街中には寺が多いと言っていたが、街の防備のために寺を集めていたのだろう。


 今日は、自転車で遠野の村をまわってみる。まずは、土淵村のカッパ淵。5Kほどの道のりだが、ゆるやかな上りである。道路の正面は山の中に入っていくが、両側は田んぼが広い。ちょうど大きなコンバインで米の収穫をしているところだ。結構、豊かな地域ではないかと思う。城下町があり、田畑の平地があり、そして山地に連なる地形である。

 カッパ淵では、人形のお嬢さんが緑のカッパをぶら下げている。ここのカッパは随分小さくて、遠野物語に出てくるようなカッパではない。

 小川の水が透き通っている。両岸の木が覆いかぶさるようになっている辺りは、空気もひんやりとして幽玄の世界にいるようだ。
 傍の寺が火事になったときカッパが活躍したとかで、カッパの狛犬がいた。

 カッパ淵のすぐ隣に伝承園があり、茅葺きで土壁の曲り家がある。18世紀中頃に建てられた農家で、かなり大きいと思ったが、曲り家としては普通だそうだ。人家と厩が一体になっていることが特徴で、馬を大切にして生きていたことの象徴だそうだ。オシラサマの話を彷彿とさせるが、そういう気質の人はどこにも居るものだ。
 部屋には「だいどころ」とか「ちゃのま」、「とおりのま」という説明があるが、「じょい」というのがあった。傍で片付けをしている女性がいたので聞いてみると、「常居、いつもいるところ」という意味。「だから、漢字で常居と書いてカッコしてじょいと書けばいいのに、としゃべっているのに変えてくれないんだよねえ」と教えてくれた。
 思いがけなく、「しゃべる」という言葉をこういう風に使うのを久しぶりに聞いて可笑しくなった。結婚仕立ての頃、一ノ関の人が「言う」という意味で「しゃべる」と言うのを聞いて面食らったことを思い出した。
  
 養蚕の工程を、数字を挙げて詳しく説明しているコーナーがある。
その時は煩雑に思えてメモをして来なかったのだが、数字をメモしてくればよかった。いかに沢山の桑の葉を集め、蚕を養って、一枚の絹地になるかを説明して、養蚕という作業の大変さを訴えていたのだろうが、数字をロクに見ていないのでは話にならない。ただ、山の際で暮らすしかなかった人たちの生活を養蚕が支えていたということだ。
 見学に少し疲れたので山口集落まで足を伸ばすことは諦めて、サイクリングロードを走ってみた。猿ケ石川に沿った道で、走りやすい。
途中、橋を渡るところで道を間違えて、道の駅まで行ってしまったが、この上り坂が一番きつかった。

 遠野の土産には、明烏とどぶろくを買ったのだが、帰りの釜石線はガラガラだったので、のんびり車窓を楽しみながら、どぶろくのワンカップを空けてしまった。
 遠野の街には、遠野物語だけではない斬新な取り組みがあることを知ったが、「遠野物語」の原風景については、その入口をチラッと見た程度だ。
 オーストラリアからの客人のように、じっくり腰を落ち着けて遠野郷の世界に浸ってみたいものである。
                     (2023年9月23日~25日)

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