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子どもたちと作ってきた場所|ゆめのきのザツダン #3

ゆめのき学園代表、羽賀まきこへの雑談のようなインタビューをお届けします。

聞き手:横田孝優(ザツダン株式会社

羽賀
2月は人前でお話する時間をいただいて、自分のやりたいことや「どうしてこれって今やってるんだっけ」みたいな原点に帰ることが多い月だったんですよね。数年前に比べると、やりたいことがしっかりと自分で言えることになった嬉しさもあり、かつ、モヤモヤしたり、戸惑うっていうか、言語がなかなかできないけど、この自分のモヤモヤをどうしても横田さんに話したくなって、2月に電話したんですよね。

『夢みる小学校 完結編』とか『ゆめパのじかん』とか、いわゆる教育や保育に関わる子どものドキュメンタリーを見ての登壇の機会をいただきました。どちらの映画もたくさんのお客様がいらっしゃっていて、みんな感動したり、「こういう場所があったらいいよね」って、確かにそこに共感があったんですよね。


何を感じ取るかはその人たちの自由だから、何が合っていて何が間違えているってことはない。それは前提として分かっているんだけれども、いろんな人と対話をする中で「違い」みたいなものは感じたんですよね。

私が違和感を感じた部分が「新潟でもこういう場所を作ろう」みたいな。そこに私も一定の共感はあるんです。そういう場所があったらいいなって私も思っているし、 新潟でそんな場所ができるってことは、子どもに対して市町村単位でみんなで力を入れていくっていうことの現れかもしれないし、単純に子どもが楽しいと思える場が増えたらいいなっていうのはあったんだけれども、「そういう場所があったらいいな」「そういう場所を作ろう」って前提ではないんです。

私は両方の映画を見て一番思ったのが「今からできる」でした。今日からでもできるし、なんだったら「夢みる小学校」も「ゆめパのじかん」も、新潟にもすでに存在している

同じような状態で、大きな敷地を使って存在はしていないかもしれないけれど、夢みる先生はあっちこっちの学校にいるし、その役割って別に学校だけが担わなきゃいけないわけじゃない。

私が共感した一方で、その違和感の根本のところが、誰かがやってくれたらいいなとか、そういう場所があったらいいなっていう、みんなが傍観者っぽい。言ってる人たちはそのつもりは全くないんだけど、例えば、夢みる先生が育っていくには、みんなが先生になる可能性は低くても、自分が保護者であるっていう可能性は高くて、その関わり方とか、先生に対して声を掛ける言葉一つが変わっていくだけで、夢見る先生に近づけるし、夢見る小学校に近づけるって私は思っています。

派手さがあるって言えばいいのかな。今、世の中でそういう形が少ないからドキュメンタリーにもなるし、いろんな経験ができてとか、子どもが自由にできてとか、 「わ、すごい!」みたいなイメージだと思うんだけど、やっていることの裏にある「それをしていいんだよ」っていうエネルギーの方が、ずっと大事で、今のイロトリドリでも、放課後児童クラブでも、学校でも、保育園でも全然できることで、マインドが大事だよみたいなところが広く伝わっていくといいと思います。

たくさんお金をかけてとか、時間かけてってやらなくても、今日からでも、夢みる場所は増えていくんじゃないかな。

横田
その話と直接繋がっているのかわからないですけど、キラキラして見える成功例じゃないですか。ある程度形ができあがって、成果も出ている。

そうすると、見た人は「こうやれば成功する」っていう見方をしちゃう。 だけど、映画の中で見えているものって、当然直線で進んで行った先にあったものじゃなくて、こっち行ってやってうまくいかなくて、今度はあっちに行ってやってみてまたうまくいかなくてって、グネグネしながら今の形がある。それを忘れちゃいますよね、キラキラした成功例だけを見ちゃうと。

でもそうやってグネグネ曲がっていくこと自体が実はとっても大事で、 うまくいった部分とうまくいかなかった部分が当然あって、うまくいったところ育てつつ、うまくいかなかった部分を修正しつつっていう。そういうことを後回しにしちゃう感じがいろんな場面でありますよね。

コスパが重視される世の中という点でも思うし、プロセスが軽視されてしまうっていうところには、普段感じたりすることと繋がっているのかなって思いました。

羽賀
大人が思想を持ってこういう場所を作りたいな、これって子どもにとって幸せだろうな、って思うこともまた大切なんだけれども、そこに生きている子どもたち、そこで過ごす子どもたちと作っていくものだから「場を作る」っていう表現自体が違和感を感じます。

特に去年の終わりくらいから、自分の中で意識している大切なことがあるんですけど、子どもを意図したように持っていかないっていうか。

例えば、日常の中で子ども同士が言い合いするとか、きつい言葉を投げかけている、心がズキズキするような言葉がけを子どもがしているみたいなことが続くときに、それをすごく過大な問題だって思うと、そこに大人がすごくアプローチをかけたくなると思うんですよ。

でもほんと「待つ」ってすごい大事で、ひとつ立ち止まって「あ、私がなってほしい理想像をこの子に押し付けようとしてないかな」って考えるんです。

私だって成長する過程で紆余曲折してきたんですよね。自分の力で乗り越えたり、自分でそれをどう捉えるかって感じ尽くしたりする前に、周りから 大人が声をかけすぎないようにしたい

この間イロトリドリに見学にいらっしゃった方が、「すごいですね、ここの子たち」って言って、「こんなことできるんですね、自然に」みたいに言ってくださったんですけど、 すごく不思議な感じがしました。

なんか普通っていうか、これってこういうもんだって。

大人の目から見た時に、「子どもってこういうものだ」というイメージが合って、それを上回ったからすごいって言ってくれくれたんだと思うんだけど、 「こうだよ、子どもって」って私は思ったんです。

「すごい」とか「びっくりした」とかは感情として持っていいことなんだけど、 「そういう子にするためにここを作る」とかはまた違うと思う。

その方にも言ったんだけど、イロトリドリが主語じゃないっていうか、イロトリドリがこういう子が作ったんじゃなくて、そこら辺を歩いてる子もみんな持ってるんですよ。

ここで一緒に生活をともにしながら、関わりながら、子どもたちが作ってきたのがイロトリドリなんですよ。逆なんです。

横田
なるほど。

羽賀
「夢みる小学校」も「ゆめパのじかん」も、もちろん大事なんです。大人がこういう思想で、こういうことを子どもに大事にしてあげたいよねっていう大人が出すエネルギーはすごい大事だけど、それって大人側がぐいぐい来るものじゃない。

「新潟にこういう場があったら行きたいな」みたいな感覚でだったらいいんだけど、子どものためにこういう場所を作ろうみたいなのって、 なんかいまいちこう乗れないって違和感をすごく感じた。

横田
よくある手段と目的の逆転が起きているのかもしれませんね。

羽賀
昨日、別の放課後児童クラブを見に行かせていただいた時に、やっぱり現場の先生って色々課題に感じてらっしゃることがあって、その一つに言葉が乱暴な学年があるっていう話だったんです。面白いことに、元気いっぱいな年と「もうちょっと弾けていいよ」みたいな年と、順番で来たりするんです。

先生たちは困っていらっしゃって、「暴言とか暴力があって、どうしてますか?」みたいな質問を受けたんです。

申し訳ないことに「一言でこうです」ってやり方はないっていうか、背景がそれぞれ違うから、そのお子さんによってアプローチって全然変わってくるからわかんないですって答えたんですけど。

その後、子どもたちと2時間半ぐらい遊んだんですけど、 そうすると先生たちが欲しい子どもの姿って存在するんですよ。だけど、その時は先生たち全然見てくれてなくて。

「すごいな」って思ったのが、先生たちが出席を取るのに、子どもたちが座って学習してるんですよ。座ってると動いてないから、点呼しやすいですよね。それで先生が終わったら「終わったからもういいよ」みたいに言うんです。

宿題をやっている子もいるわけですよ。だけど、先生のタイミングで子どもが自由に解放されるシステムにびっくりしたんです。

それはそこのやり方だから、それ自体が悪いとかはないんだけど、私は「子ども偉いな」と思って。何か一言ないのかなって思ったんです。「みんなありがとう。みんなのおかげで点呼が終わったから、このまま続けても大丈夫だし、遊びたかった子ありがとうね」って。

「子どもからあったかい言葉がほしい」と言いながら、まず大人がかけてないよなって思いました。


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