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冥い(くらい)時の淵より

一  4
村上は、ストイックに自己を抑制し、
大学で兄と共に行動すべく、
着々と日々をこなした。
そして入学したのだった。
しかし、兄の笑顔は見られなかった。
村上と会っても苦しそうな表情が目立った。
本心は常に聞けなかった。
帰省した時の、両親の声が聞こえる。
兄は日本を捨てる気になっていた。
オヤジは怒り、オフクロはヒステリックに泣いた。
今思えば、兄にしても、両親にしても、
仕方なかったのかも知れない。
自分は部屋の片隅で、成り行きを見るしかなかった。
『一彦!考え直しておくれ!』
オフクロの悲痛な叫び声が蘇る。
あれは、兄貴の同士だった奥田さんが、
イスラエルのテルアビブで射殺された直後だった。
兄貴は腹を決めていたんだ、と思う。

あれから兄貴はどこでどうしているのか。
シルクロードに、自転車1台抱えて行ったきりだ。
砂の舞う芒爆とした地を、
あても無く彷徨しているのだろうか。
それでも、どんな生き様であれ、
その人間でなければ出来ないスタイルというものは、
必然としてあるに違いない。
少なくとも自分には、
ふいと自転車1台のみ携えて、シルクロードに発つ、
など似合う筈がない、と村上は思う。
兄には、そうするに足る理由があり、
自分には、一切なかった。
自分はこうしてデカダンぶって、
無い物ねだりに耽っているのみだ。
つくづく、甘えん坊で自分が情けない。
何故生きているのか?-

既に、10代の終わりに発した問いが、
30代を目前に、再び頭をもたげていた。
しかし、その問いは、確実に、
前回のそれとは異なっていた。

-俺は、ひょっとすると、
もう"余生"を生きているのではないか-

不完全燃焼の生のまま、余生に突入する、
などという事があり得るのだろうか-

-いや-と村上は思う。
俺は、もう、死を考えているのではないか、
この唾棄すべき自(おの)が生を、
どのように絶ち切ってやるか、
それをのみ想っているのではないか、と考える。
まるで、死に場所を求めて彷徨(さすら)うオランダ人だ。
だが、オランダ人は、処女ゼンタの愛により救済された。
およそ信仰心には無縁な自分に、スナックのママが
ゼンタになるなど考えもつかない。
結局、自分は救済など信じはしないのだ。
こうして怠惰な時間の中で、ずるずると不毛な関係を
引きずって朽ちて行くのだ。
空虚な笑みが、村上の唇を歪める。

「マーちゃん、もう寝ようよ。」
村上の股間から顔を上げて名美が言った。
「もっと飲むん?」
一瞬、想いを絶ち切られて村上は戸惑う。
「ああ、もう少し飲んでいたいな。」
名美をイラつかせる曖昧な返事である。
「もう。ま、いいけどね。この道ばかりは、
ナニのタイミングってのがあるからねえ。
無理矢理されても、しぶしぶしても
オモロないだろうさ。
いいや、じゃ、もう少し私も飲もうかな。」
名美は立ち上がると、
それが癖の、後の髪をかき上げて言った。
そしてカウンターに寄ると、
境のドアをくぐってカウンターの中に入り、
自分用の酒を物色し始めた。

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