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冥い(くらい)時の淵より

一  5

「名美さん、またモスコ?」
村上は、二人の時間の空虚を少しでも
言葉で埋めようとするかのように言う。
「モスコねえ。
ふん、やっぱりモスコ飲もうかなあ。」
名美は殆ど独り言のように言うと、
グラスにアイスボックスから氷を放り込み、
ウォッカに手を伸ばした。
モスコミュールはすぐに出来た。
名美はカウンターから出ると、
村上の横の椅子に坐り、今一度村上の唇を求めた。
ふたりがグラスを合わせ、一口飲んだ時、
店の電話が鳴った。

「はい。『馬酔木』です。」
名美が出た。
「はい?ああテッちゃん。何よ。マーちゃん?
うん、居るわよ。代わりましょうか?
何言ってるの、馬鹿ねえ。」
そう言って名美は村上に向き直る。
「はい、愛人からお電話。」

「愛人ね。違いないな。」
村上は、若原からだ、と知った時から
心が弾むのを覚えていた。
自分がこんなダメな男で、しかも若原がああいう
非常事態だと言うのにも関わらずそうであった。
理解を越えた何かが、若原にはある、と
苦笑いしながら村上は痛感する。
「おう、俺や。何?
いや、その後全く状況は変わってないよ。
そっちは?・・・・そうか。
うん、いや、うん、来いよ。
何言ってんだ。うん、構わんよ。
いや、ちょっと待てよ。」
村上は受話器を持ち替えると名美に向かう。

「若原が今から来てもいいかって言うんだけど、
当然いいだろ?」
名美は、もうカウンターの内に入っていた。
「アホな事気にしたらアカン言うとき。
私がテッちゃんのファンだって事知ってるはずやろ。
美味しい肴作って待ってる、て言っときよ。」
「ダンケ」
そう言って村上は受話器に答える。
『馬酔木』に新しい空気が入って来た、と村上は思った。


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