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劣等人間として生きてきた。
昔から…そう、昔から自分は、他の子にはあるのに、わたしだけ欠けた存在だと思っていた。
学校にいる生徒の中で、わたしだけが何故か皆についていけない。勉強も、体育も…成績が悪い。こんなわたしは、きっと欠陥人間で出来損ないなのだと思っていた…。
小学生時に習っていた書道は、友達が塾の娘で、それはそれは美しい字を書き、評価はいつも花丸だった。だから…自分が、書道の祭典で、日本武道館に行ったときも、どこか気後れして自信など欠片もなかった。わたしは、臆病だった。日本武道館での成績が伝えられた時も、
『書道四段』
という、結果になんの喜びも湧きはしなかった。
後に、知る事になるのだが、四段の上は書道の師範的な肩書が得られ、いわゆる、
『書道の先生になる資格』が、得られたそうだ。
でも、わたしはもう、自分にうんざりしていて、これ以上続けたいという意思が薄れ、書道教室も辞めた。
*****
中学時代、今現在noteの先輩である方が、とても美しい感性の持ち主で、国語の先生にも、優秀と認められ、その人の才能は、正に天からの才能だと思い、羨望の眼差しを向けていた。
そうなんだ。
わたしは、いつも誰かと比べて、自己の存在のレベルを確認していた。
こんなにも出来損ないなのは、自分が劣っているから。
劣等人間なんだ。
パズルのピースがピタリとハマった気がした。
劣等人間。
劣等人間。
わたしは、自分を卑下し、批判的な言葉で、自分を表現することに、慣れてしまい、今でも、自分を過小評価する癖がある。
だから、褒め言葉は苦手だ。
きっと、憐れみの心でわたしを評価して下さっているのだと。
素直に喜べない。
逆に、自分が虚しくさえ思う…。
今でこそ、こんな思いはしなくなったが、noteでの立ち回りが下手で、フォローは沢山頂くけど、それに見合った人間ではないと、申し訳なく思う。
そして、わたしは気づく。
『劣等人間とは、わたし自身の、出来ない《言い訳》にしかなっていないのだと。』
わたしはその言葉を楯にして、ずっと逃げ続けていたんだな…とね。
すべて、保身の為だったと。
勉強が出来ないのも、体育が嫌いなのも、優等生と対比する癖も、そうすることで、自分を護ってきたのだと。
漸く、気づいた。
だから、もう、そんな言葉で、自分の価値を下げ続けるのは止めようと、自分の能力を認め、自分を愛してあげよう。
自分を愛せない者に、誰かが愛してくれることは無いのだから、と。
完
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