中途半端に社会に馴染めてしまったあなたへ

"社会不適合者"という言葉、もとはネットスラング的なものだったけれど、
最近はかなり一般的になっているように思える。

なぜ普及したかは定かではないけれど、
そういった"社会になかなか馴染めない人たち"が社会的に注目され、言葉として浮き彫りにされてしまった結果なのかもと思うこともある。

社会に馴染むことが人々に対する注目
は、いわゆる理解の目を向けるということや、対策、治療法など+の方向へ向かっている。

特にうつ病、双極性障害、パニック障害などの精神疾患などは取り上げられがちだ。

社会に馴染むことが難しい人たちへのこういった動きは大変良いことだと思うものの、まだ肩身の狭い人たちがいるんじゃないかと思う。


いちおう社会に馴染めてはいるけど、どこか苦しい人


部分的には社会に馴染めてるけれど、そこで日々を過ごすのが少し苦しく思っている人たち。
こういった人たちは表立ってその苦しさを認められにくいし、その存在さえ気づかれなかったりする。

別になんらかの精神疾患にかかっているわけでもなく
(それか兆候のようなものはあれど、いたって軽微だったり)、
とくべつにひどい環境にいるわけでもなく"ふつうに思える"環境に身を置いているはずなのに、なんだか苦しい思いをする人。


そういった人は自分の苦しみを自覚すると、苦しみの理由がわからなかったり、納得できない時があるのではないだろうか。
「なぜ苦しいか?別に自分がひどい境遇にいるわけでもないのに。」
むしろ、なにか異常でもあったほうが納得がいっていいと思うことさえある。
「苦しいのに何も理由がないなら、私はただの根性なしなのか?」
こうも思うだろう。自己否定観も強く出てくる。

こういった悩みは人に話そうにも、苦しさの説得力のなさも自覚しているために、そっと心にしまいがちである。
そうするとおのずと自分ひとりで苦しみを抱え込んでしまう。

社会で様々なつながりを持ちつつ、働きつつ、学びつつ、誰にも気づかれないでこういった思いを持ち続けるのは苦しいことだ。

こういった人々もいるはずだけれど、まあそういった存在としてなかなか言及されにくい。まだその存在に気づいていない人もいるかもしれない。
それでは、あんまりだと思ったので書いた文章でした。

様々な想いがあるので、個々の対処法などはわからないけれど、

社会の中での自分の価値への不信があるなら、様々な人と触れたり、文に触れるとよいこと。意外と、こういったものでも受け入れられるものなのだなと思ったりする。

きっと、不安になりがちな人は理想家だったりすると思う。自分の厳しめの尺度で"社会に受け入れられるもの"を考えすぎちゃってるのかも。

おわりに

前向きになれるような革新的気づきがあり、それに心を躍らせるも、少し経つとやはり違うのではないか、と思うことが何度もある。
その時間は長く苦しいけれど、急に、昔はそんなことは断じてできないと思っていた考え方がやんわりとできるようになる時が来ると思う。

様々なひとの、大衆の、価値感に触れると自分をほんの少しでも許せる日がちょっぴり早く来るはずですよね。知らんけど(これくらいのマインドにおおよその場面でなりたい)。


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