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雲に飛ぶくすり/第6話「色の無い花の温もり」
次の日。正午の時分にホテルのチェックアウトを済ませたジンは早くも「Yellow Point」へ向かった。昨日まで重厚に感じた入り口の扉に難なく手をかけたが、鍵がかけられていた。チャイムを鳴らすとガチャっと開いた。数時間ごしに二人は再会した。
「あら?ジン君ではありませんか。ここのお店のお酒そんなに美味しかったかしら。すっかりお得意さんだね」
「昨日のライムは刺激が強すぎて、しっかり二日酔いにもなったよ。色んな意味で虜になったかもね。それに大事にしてるこれを渡しそびれたからさ」
「あはは……またやっちゃったね私。ありがとう」
「いや、僕が昨日、すぐに渡しておけばよかったんだけどね。その……色々あったじゃないか。そのままカードケースのことが遙か彼方へ飛んじゃったよ。けど、あんな凄い雨の中をビショビショになるのを覚悟の上で探しに行ったってことは大切なものなんだよね」
「さすが未来を育てる先生だね。よく観察していることで!」
今度こそ、カードケースをアカネに手渡した。ありがとう、と呟くアカネの声を聞いてジンは得体の知れないさびしみを覚えた。元来、人と会うための理由なんかない。しかし、カードケースはアカネと自分とを結びつける確かなアイテムであったのだと、この時に理解した。
「ジン君。今日この後はどこへ?」
「それが特にこれといって決まっていなくて。とりあえず君に渡してから行き先を決めようかと思っていたよ」
「そうだったのね。もし良ければコーヒーを淹れるから一緒に飲みませんか?」
「それは悪い気が……」
「いいの、いいの!気にしないで!」
「じゃあお言葉に甘えて。ありがとう」
店内の様子は穏やかであり、掃除の途中だったらしく、窓が空いていた。冬の東北の凍てつく寒さとは無縁な温暖な日の光が店内をじんわりと照らす。
すると店内にあったソファーで、すやすやと寝息を立てている幼い子どもがいることにジンは気がついた。
「その子は?」
「たはは……私の娘だよ」
まさか子どもがいたなんて思いもしなかった。たゆたうジンをコーヒーの湯気が包むと、彼は小さくしぼんだ。
「まあ……そうか。名前はなんていうの?」
「ミリって言います!私の育った地元のように、綺麗で美しい人になってほしくて。そんな名前をプレゼントしてみたの」
「育った所って?すると仙台のこの街のこと?」
「ううん。ちょっと離れるんだけど、国分町と比べるとのどかな所でね。大きな川があって春になると菜の花がすっごく綺麗なんだ。そこが大好きで。ジン君が拾ってくれた名刺入れに刺繍されたのはそこの菜の花をモチーフにしたものなんだよ!」
そう語るアカネの目は片思いをした思春期の少女のように純粋で真っ直ぐな眼差しだった。思わず背中を押したくなる。しかし、ジンはすぐに疑念が心に生じた。
「不思議だね。あのカードケースの花の色は黄色じゃなくて灰色だよね?」
「あれはね、もう少しミリが小さい頃、兄に作ってもらったの。三歳だったかな。布の色を決める時、この子が灰色の布を掴んで離さなかったの。私たちは『菜の花の色は違うよ』って言っているのに『これぇ』って話しを聞かなくって」
クスッとアカネは微笑む。
アカネの夫はどんな人なんだろう。きっと自分なんかより余裕があって大人な精神で安心させるような人なんだろう、とジンは少々自棄になった。ジンの元来の好奇心の強さがひょいと心に姿を現した。
夫のことを本人に聞いてみようと口を開こうとした時、店内のドアが開き、男の声がアカネを呼んだ。
「また掃除してもらって悪いなアカネ。アルバイトの子たちでお店をまわすから今日は家でゆっくりしてろって言ってなかったっけか?それに昨日は……」
何かを言いかけた男はジンを見て「あれ」と不思議な表情になった。整えられたオールバックの髪型にジンは威圧感を覚え、瞬時悟った。
(アカネの夫か……)
途端に気まずさが顔を覗かせた。自分は何をやっているんだ。何が二人を繋げるアイテムだ。少し前の自惚れていた自分をジンは強く恥じた。
「アカネ。この方は?」
「昨日落とし物を拾ってくれて、その後お店で暴れ出したお客さんを追い出してくれた人だよ。またジョーはメール見てないね」
「ああ、見た見た。ごめんなアカネ。あの酔っ払いは俺の後輩でさ。最近女と別れて荒んでいたらしい。ただ俺の店で暴れてもらっちゃ困るってんで説教してやった。『反省してます。ごめんなさい』だとよ。そんな事があったから、アカネからのメールの事、すっかり忘れてたよ」
アッハッハ、と豪快な笑い方に下品な感じはしなかった。
「そうか。君がジン君か。初めまして。譲二です。俺からもお礼を言うよ。君が殴られた事も聞いた。あいつに代わって謝罪がしたい。この度はご迷惑をおかけしました」
譲二は言葉を先に伝えた後に、深く頭を下げた。洗練された挙動から誠実な印象が強く残る。ジンは目の前の人物に対して慎んだ態度になった。
「いえ、むしろ僕の方こそ熱くなっちゃって反省していました。わざわざありがとうございます」
「この青年は随分と爽やかだなアカネ。しかもミリの奇跡的なセンスでデザインが決まった大事なカードケースまで届けてくれたなんて、お礼がしきれないな」
カードケースの事を知っているのなら、とジンはいよいよ確信を得た。この人とアカネは夫婦で二人の愛娘がすぐそこにいる。自分と関係値の浅い家族に囲まれた歯痒さから。ジンは必死に話題を探した。
「やっぱりカードケースは大切にされていたんですね。お二人の娘さんが選んだ色ですもんね」
ジンの言葉を聞いた譲二は不思議そうにジンを見つめた。
「君は勘違いしているようだが、俺はアカネの旦那じゃないぞ」
「え……?それじゃあこの店のオーナーとか?」
予想が大きく外れた衝撃からジンは狼狽した。
「確かに俺はオーナーだが、お店のことはアカネに任せている。それにアカネは俺の妹だ」
予期せぬ返答にジンは固まってしまった。奇妙な運びに動揺していると、ソファーで眠っていた子が目を擦りながら静かに起き出した。女の子は寝ぼけ眼でジンの事を不思議そうに見つめた。すると、女の子は立ち上がり、タタタッとアカネに向かって走り出した。
「まま……知らない人がいる」
アカネを盾にするように、女の子は姿を隠しながら顔を半分出した状態でジンの事をジーッと見た。
「こらこら。この人はとってもいい人だよ。強くて優しい人だよ」
「……いい人??」
「そうだよ~。ほら、あいさつしてごらん」
モジモジとしている女の子に目線を合わすようにジンはしゃがみ込んだ。ジンと女の子は目線が合うとジンはニコリとして、ゆっくりと話し出した。
その後、ミリとジンが仲良くなるのにそう時間はかからなかった——。
その後、譲二からの誘いでジンたちは譲二が営んでいる苺園へと移動した。車で三〇分程度移動すると、国分町の町並みとは打って変わり、田園風景が広がる。すぐ近くなのか空港へと吸い寄せられては吐き出される飛行機がいくつかジンの視界に映り込んだ。
譲二が経営している苺園は広大な土地に多くのビニールハウスを構えていた。近くには雄大な川がマイペースに流れている。もっと温かくなってくると観光客を迎える観光地としても機能するらしい。
穏やかで温かなビニールハウスの一角で、眠りから覚めた幼いミリは元気いっぱいに走り回った。
「ジン!!はいこれ。たべて!」
小さな手に抱え込んだ苺は赤から緑、白へとグラデーションがかかったように半分以上が未熟なものである。ジンは苦笑を表に出さず、ミリの手の中から赤々と熟した苺を摘まんで見せた。
「ミリちゃん。これがおいしい、いちごの色だよ。白いのより赤い方が甘くてとっても美味しいのよ。赤くなったいちご、探せるかな?」
「全部一緒じゃないの??」
「ほら。ミリちゃん。ここを見てごらん」
ジンは腰を屈め、幼いミリの目線に合わせる。幼いミリは訝しげな表情で数秒フリーズした後、パタパタとビニールハウス内を走りだした。ミリはいくつか苺を手にすると再びジンの元へ戻ってきた。手に持った苺は先ほどと同じく熟したものと、そうでないもの。実に色とりどりであった。ミリからの好意を無下に出来ないと判断したジンは渡された真っ白い苺を手に取り口へと運ぶ。それを見ていたアカネは無理をしないで、と心配した様子でジンを制止する。
——ジンと譲二はビニールハウス内を見渡せるベンチに腰をかけた。遠くではアカネとミリがまるで友達のように、しゃがみ込みながら楽しそうに苺を物色していた。その様子を男二人は見守っている。
「この苺は寒い土地で育つようにたくましい奴でね。完熟前が一番美味しいように品種改良を重ねて出来たんだ。農薬もいらないから子どもでも安心して食べられる自慢の一品だ」
譲二は自身の営む園の苺についてジンに熱弁している。
「譲二さんは一体何者なんですか。お店も経営しているかと思ったら、苺園も営んでいるだなんて」
「まあね。色々と顔が利くのよ」
譲二は屈託の無い笑顔を浮かべ反応した。初対面とは思えない、ほどよい距離感にジンは心地良さを覚えた。
「ところでジン君。俺は君の事がとても気に入った。初志貫徹を目指すのは尊いものだとして、そもそもスタート地点の『何者かになろう』とする気概を有する人物はこの時代、希有だと思う。そこでだ。君の話をもう少し詳らかに聞かせてくれないか。ジン君が良ければ今日は家に泊まって話を聞かせてほしい。家には離れがある。睡眠がとれる場所は君一人だからなにも気にする必要がないと思う。それに————」
譲二はチラと視線を横にそらす。ジンもつられてそちらに目をやるとミリがブンブンと全身を使いこちらに向かって手を振っていた。その隣にはアカネが控えめな様子で右手をヒラヒラと振っている。
「二人も喜ぶからさ」
「けれども、さすがに迷惑じゃないですか??気持ちはすごくありがたいですけど……」
「無理にとは言わないさ。ただ、俺はお礼がしたい。しかも妹があんなに楽しそうにしているのを見て。そっちの話も興味があってねえ」
ニヤニヤと笑みを浮かべる譲二の表情を見てジンはしばし戸惑った——。
結局ジンは譲二の圧に根負けした。東北二日目の宿が決まる。後は野となれ山となれ、ジンはそのような心持ちになった。
ミリは「やったー!本を一緒に読む。国語の先生に読んでもらう!」と、ちょこちょこ踊った。アカネは「兄がすみません」と申し訳なさそうに振る舞っていたが、その表情には喜びが垣間見えた。
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