見出し画像

2020年の離婚から考えてきたこと

結婚 25年 馴れ初めから

3人目の子供が20歳になった年25年連れ添った夫と離婚をした。
大学の同級生だった夫とは1年生のサークルの新歓コンパで私と知り合った。
その時初めて言葉を交わして以来、元夫に付きまとわれた。
男子校出身の元夫にとって新歓コンパで初めて女の子と会話をしたのである。その女の子とは私だった。
元夫にとって忘れられない経験だった。
私大学時代は元夫から逃げ回っていた。
にもかかわらず、結局簡単に言えば他にいなかったので、仕方がないぐらいな気持ちで彼と結婚したのだ。

恋愛感情などなかった。
彼には安定した職業があったこと。結婚すれば私の家族が喜ぶと思ったこと。
そして何より結婚して家族を増やすことができると思った。

これが私の結婚を決意した経緯である。

当然彼の人間性が気に入っていたわけでもなく、彼の人間性に関心を寄せていなかったのだ。

私は、彼がほんとうの意味で、他人に関心が持てない習性を感じとっていた。
その彼の習性がその時の私にはなくてはならないものだったのだ。

なぜ私が彼のような習性がある人をその時必要としていたかを、これからお話ししたいと思います。


大学卒業後、私は企業に就職したがもう一度大学院に進み、長く続けられる職業に就きたいと思い、1年で会社を辞め、研究室の助手をしながら大学院の入学を目指していた。
ちょうどそのころ、司法試験に合格して私に報告をしてきた彼と再び会うことになった。

彼とは大学の時彼から告白を受けて、きっぱりと断ってからほぼ関わることがなくなっていた。

そしてまさにその頃、
私はといえば2才違いの妹が亡くなるという不幸のどん底にいたのです。
どちらかといえば私は人見知りであったこともあり、友人を作ることよりも妹と行動を共にすることを好んでいました。
私は妹に依存していたと言えます。
買い物を行くにも、スポーツクラブに行くにも、おしゃべりをするにも妹とすることが一番のたのしかったのです。
姉の私とは違って、妹は社交的で友人が多く、深い思いやりのある妹でした。
私は妹を天使のような人間だと思っていました。
自慢の妹でした。
私はこの妹がいれば友人はいらないとまで思っていたのです。

その妹が24歳で亡くなりました。
苦しく暗闇の時間が流れていました。
妹の死は私を長い間寂しく真っ暗な洞穴のような中に閉じ込めました。
自分を責める日々でもありました。
そして
両親の苦しさをなんとか紛らわせなければいけないと思う日々でした。

母に少しでも笑ってもらいたいと願う日々でした。

そして
自分自身も何とかこの悲しみをかかえながら、生き続けなければいけないのだと思う日々でした。

妹が死んだことによる苦しみからなんとか楽になりたいと願っていたのです。

しかし、
私の日常は妹の死、あの日からその風景がすっかり変わってしまった。天使のような妹はもう二度と私と話すことはない。
この世にはもう存在していない。
ともに大声で笑うこともできない。

その現実が私には受け入れがたい日々となっていた。

24歳の妹が亡くなったことは、私の周囲の人たちにとってもショッキングな出来事だった。
親しい友人たちは私を心配してくれた。
悲しんでくれた。

しかし周囲の人たちの同情がなにより受け入れることができなかったのだ。
私の苦しみはわかるはずがない。
同情などしてもらいたくない。
もう誰にも会いたくない。

私は誰にも会いたくなかったために自宅に引きこもる日々を送っていた。
父は休んでいた会社に出社し始めた。
母は私を心配しながらボーっとする時間が多くなった。
時々悲しいひとりごとを言うようになった。
それを聞くたびに私はとても怖かった。
元気を出して悲しまないで、
私が頑張るから。そう、声をかけたかった。
しかし、妹に関わることは誰一人として口に出すことはなかった。

私の家の中はお互いが相手を心配しながら、なんとか明るく接していた。
妹の話は一切しなかった。
誰も消して妹の名前を出すことはなかった。
誰もが妹の名前を出しただけで泣き崩れることは分かっていたのである。

妹の死が現実であることなんとか意識に登らせないようにしていた。

せめて同じ苦しみをもつ家族と一緒にいることが私の精神状態をかろうじて保っていた。

そして、
家族が地獄にいた、真っ只中だった。
元夫からの手紙が届き、しばらくすると家の電話が鳴った。

私の家族におこった不幸で悲しい出来事を何も知らない人からの電話だった。
私の心も体も全てが悲しみに浸かっていたが、そのことをひとかけらも知らない人間があの日依頼、初めて私に話かけてきた。

次回へ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?