見出し画像

ウルトラシリーズにおける人格の問題 導入:ウルトラマンは"変身"しない

「ウルトラシリーズにおける人格の問題」

いやこれは正直もう論文化できるだろうってぐらい個人的には深めたいテーマの一つでした。
これを機に少し深掘りしたいと思います。

導入 人格の問題とは

さて、今回ウルトラシリーズにおける人格の問題をテーマにしたいのですが、ここでいう「人格の問題」とは何を指すのか、ということをまず整理しましょう。

多くの人 ーウルトラシリーズにさほど興味がない一般の人を想定していますがー はウルトラマンのフォーマットを以下のように考えているのではないでしょうか。

ウルトラマンに"変身"する人がいて、その人がウルトラマンに"変身"して戦う。

それはあながち間違いではありません。そういう形式の作品もあります。ただウルトラマンには、他のヒーロー(ここで意識するのは東映作品の仮面ライダーやスーパー戦隊のこと)とは決定的に異なる点があります。

それは「ウルトラマン自身にも人格がある」という点です。

これだけ聞いても分かりにくいので少し仮面ライダーとウルトラマンを比較する形で、考えてみましょう。

1971年放送の仮面ライダーの主人公は本郷猛(演:藤岡弘、)という青年です。頭脳明晰で運動神経抜群な彼は世界征服を企む悪の秘密結社ショッカーにより改造手術を施され改造人間となります。彼をショッカーへと推薦した緑川博士の助力のおかげで脳改造寸前で脱出に成功した本郷は以降、仮面ライダーとしてショッカーに立ち向かう、という展開です。

これを読んでもらえれば分かるのですが、ここにおいて「仮面ライダー」=「本郷猛」という図式が成り立ちます。つまり本郷猛が戦うための姿が仮面ライダーなのであり、まさに本郷猛は仮面ライダーへと"変身"を遂げる訳です。これはこの後脈々と受け継がれていく仮面ライダーの歴史でも変わらない部分です。

本郷猛は仮面ライダー1号であるし、
仮面ライダー1号は本郷猛である。
ここはウルトラマンとは決定的に異なる。


対してウルトラマンは異なります。
1967年に放送開始となった「ウルトラマン」の主人公はハヤタ・シン。彼は科学特捜隊という防衛組織のメンバーでしたが、ウルトラマンが怪獣ベムラーを追って地球にやってきた際に、ハヤタ隊員が乗っていた戦闘機とウルトラマンが衝突し、ハヤタ隊員は命を落としてしまいます。ウルトラマンはハヤタ隊員に対し、贖罪の意味を込めて自分と命を共有することによって、ハヤタ隊員を蘇らせます。こうしてハヤタはウルトラマンへと変身する力を得て、怪獣や宇宙人に立ち向かうのです。

ここで少し考えたいのは仮面ライダーとは全く異なる図式であるということ。つまりウルトラマンにおいては「ウルトラマン」=「ハヤタ・シン」という関係性は成り立っていないということです。

第1話 ウルトラマンとハヤタが会話するシーン
2人はあくまで別人格であることを象徴している


あくまでM78星雲人のウルトラマンと地球人のハヤタ・シンはそれぞれ別個のアイデンティティを持っているのであって、体と命を共有しているにすぎないのです。

つまりウルトラマンでは、「宇宙からやってきた未知の人物に自分の命と体を仮託して戦う」という極めて異例な形式のヒーローであることが分かります。(もちろんウルトラシリーズの中にはそれに該当しない作品もあります。詳細は後述)
だからこそウルトラマンになる行為を"変身"と呼んで良いものか甚だ疑問です。どちらかというと"合体"という言葉が正しいような気がします。

実際「ウルトラマン」に始まり、現在の「ウルトラマンブレーザー」に至るまで、劇中で「変身!」という掛け声を使ったことはないのではないでしょうか。

これは東映に対する対抗心もあるでしょう。1967年に放送開始し、空前の怪獣ブームを巻き起こしたウルトラマンでしたが、1971年の「仮面ライダー」放送開始により子どもたちの関心は変身ブームへと移行します。1975年の「秘密戦隊ゴレンジャー」や1982年の「宇宙刑事ギャバン」(こちらは変身ではなく「蒸着!」ですけど)など、東映はむしろ変身を軸にヒーローを作っていくわけですが、円谷はその路線とは一線を画すヒーロー像を作り上げていた訳です。

ただやはりそれ以上に「ウルトラマン」はそれ自身が人格を持つ存在であることが"変身"という言葉を使わせない大きな理由になっていると思うのです。

ウルトラマンが他のヒーローに比べて、神秘性が強い(少なくとも私はそう感じている)要因はこれまで話してきたウルトラマン自身の人格の存在があるのでしょう。ウルトラマン、という未知の存在に私たちは神々しさ、神秘性を感じ取るのです。(この神秘性の部分は庵野秀明監督の「シン・ウルトラマン」と「シン・仮面ライダー」を見比べてみると非常によく分かる。庵野監督がそれを意識したかは別として)


それだけなら話は楽だったのです。
でも実はもっと現実は複雑です。

というのも先ほど私は「ウルトラマン」においては、「ウルトラマン」=「ハヤタ・シン」という関係性は成り立っていない、と書きましたが、実はこの関係性が成り立つ作品も存在しているのです。

「ウルトラマン」の翌年、1968年に放送されたウルトラシリーズ3作目(ウルトラQを1作目として)の「ウルトラセブン」においては「ウルトラセブン」=「モロボシ・ダン」という関係式が成り立ちます

これが一層ウルトラマンにおける人格問題をややこしくしているのです。

ちょっと長くなってきたので、ここで一旦止めましょう。次回からは実際にウルトラシリーズ(特にTVシリーズ)のウルトラマンと主人公の関係性を洗いざらい調査して分類を試みます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?