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職場が幽霊屋敷だった話

 
 

あらすじ


 白鳥瑛一がバイトとして働き出した会社はいささか風変わりなところだった。人の良さそうな社長、気の良い社員と家族的な雰囲気があり、問題なさそうだったのだが、一つ問題があった。職場が幽霊の出る訳あり物件だったのだ。働くうちに次第に露わになる会社の実情と社長への違和感。そして……。

 

長屋門のある家


 昭和から平成へと変わってまもなくの1990年、白鳥瑛一はバイトの面接を受けるために、名古屋市藤成通りに来ていた。最近「ハローワーク」とコジャレた愛称へと変わった職安から紹介されたところは「株式会社 黒河内測量設計」という会社だった。たいそうな会社名からして、大通りに面したビルだろうと、それらしい場所を探したのだが見当たらない。
 面会を約束した午後一時までにあと二十分ある。ゆっくり探すことにした。電柱に書かれた町名からして、すぐ近くにあるはずだ。
 大通りから一本横に入り、表札を確かめながら順に見ていくと、それらしい家があった。
 時代劇に出てくる武家屋敷に似た門構えの家があり、その表札の横に、金属製の看板がかかっていた。そこに測量会社の名前と、測量業の許可番号が書いてある。門扉の横には御用聞きが出入りするのにふさわしい潜り戸がある。
 普通の民家なのだ、わからないはずだ。訪問者を威圧する外構えに、入りにくい雰囲気があって気後れがする。なにしろ、門扉の上には瓦の小屋根が作られているくらいなのだ。このまま帰ってしまおうかと考えた。大学を卒業したものの、フラフラしているうちに、アパートの家賃を滞納して、切羽詰まってバイトを決意したのだ、元から勤労意欲があるわけではない。
 どうしようかと立ち尽くして周囲を眺めた。
 通りを一本入っただけで人影もなく、自動車などの騒音は消え、閑静な住宅街が広がっていた。道の向こう側には荒れ果てた畑があり、中央に柿の木が寂しげに立っている。地価が高騰しているという名古屋市内でこんな土地が残っているのは珍しい。
 迷った挙句、約束を破るのも悪いので、面接だけでも受けてみようと瑛一は思い直した。よく見ると表札の上に呼び鈴のボタンがある。これを押すと番人が出てきて、重々しく扉を開いてくれるのだろうか。玄関から入るのは大げさな気がしたので、横にあるくぐり戸を開けて敷地に入った。御用聞きにでもなった気分だ。
 どんな豪邸があるのかと思ったら、古い二階建てのありふれた日本家屋だった。あのいかめしい門からすれば見かけ倒しといえる。
 普通の民家かと思ったら気負いが体から抜け、気が楽になる。
 玄関の引き戸を開け、声をかけると、五十代の小柄な男性が出てきた。瑛一を見ると人懐っこい笑顔を浮かべた。
「君が電話してくれた白鳥君かな。わたしは黒河内、ここの社長なんだ。ちょうどよかった。こっちに来てくれるか」
 優しい口調で言うと、後からついてこいというのか歩き出した。
 社長は現場で鍛えてきたのだろう、白いワイシャツの下から筋肉質のひきしまった体が見てとれた。話しかたと表情からして、人当たりの柔らかい世慣れた人に見える。
 縁側のついた和室に案内された。障子は開け放されていて、樹木が植えられた庭が見える。外から入る風が涼しくて、緊張していた気持ちがほぐれていく。
 ベージュの作業服を着た若い男が、机に被さるようにして電卓を叩いている。日に焼けた顔は純朴そうで、電卓よりも耕耘機を運転するほうが似合いそうだ。
 社長は、あいている席を指さすと言った。
「さっそくで悪いけど、明日までに出さないといけない図面があるんで、ちょっと手伝ってくれないかな。大丈夫、誰でも出来る簡単な仕事だから。君は頭が良さそうだから、すぐにわかるさ」
 冗談でも言っているのかと思った瑛一は、社長の顔を凝視した。履歴書すら見ないで、いきなり仕事を頼むとはどうなっているのだろう。わるぎのない表情を見ると、なにか助けてやりたくなるから不思議だ。
 居間に机を置いただけの質素な仕事場を見たかぎりでは、裏がある会社とも思えない。言われるままに席に座って、社長の説明を聞いた。
「……わからなかったら、本山君に聞いてくれれば、彼が親切に教えてくれるから」
 最後にそう言うと、社長は若い男のほうに顔を向けた。
 言われるがままに、瑛一はいきなり働くことになったのである。
 仕事というのは、横長の青焼き図面に、他の資料から情報を書き写すというものだった。『サンスケ』と呼ばれる三つの面に様々な縮尺の目盛りを刻んだスケールを使って、作業する。
 慣れない器具を使っての仕事だったが、目的が理解できると、要領が次第につかめるようになった。
 今まで体験したことがない作業に興味が出て、夢中でやっているうちにいつしか三時過ぎになっていた。
 社長がお盆に日本茶と茶菓子をのせて持ってくると「休憩しようじゃないの」と言った。
 三人で他愛のない世間話をしていると、仕事ではなく、遊びに来ているような気がしてくる。
 社長が本山君と呼んでいた男は、瑛一よりも一つ年下の二十四歳だった。長野県の農業高校を卒業してから、いろいろとあって、ここで働いているという。
 春の木漏れ日が縁側に差して温かい。庭の樹木は植木屋でも入っているのだろう、すっきりと刈られている。鳥の鳴き声も聞こえず、静かなものだ。
 しばらくすると、社長が立ち上がり、雑誌を手にして戻ってきた。
「白鳥君は文学とか好きかい。趣味で口語短歌をやっているんだけど、ちょっと見てくれないか」と言うと『測角』という業界雑誌を手渡してくる。
「ここに俺の短歌が掲載されているんだ」と瑛一に「文芸コーナー」を開くように指示してくる。
 指定されたページを見ると、確かに短歌が載っている。

 夜明け前 髪滑らかに 眠る君 漆黒の髪に 夢が輝く

 作者名は「黒河内 白雪」となっているから、社長の雅号ということらしい。
「女性への愛が感じられる、いい短歌ですね」
 瑛一は本心を隠して、お世辞を言った。隣にいる本山は、何度も見せられて辟易しているのか、愛想笑いを浮かべている。
 社長は瑛一の感想がうれしかったのか、照れたように顎をさすると「君もどうだ一首詠んでみないか。やってみると楽しいよ」と短歌を勧めてくる。
「社長みたいな風雅な趣味は、私には無理ですよ」
 瑛一は顔の前で手を振りながら断った。
 五時半まで仕事をして、帰ることにした。作業室の正面は台所になっているのだろうか、中年女性を思わせる上品な笑い声が聞こえてくる。後ろ姿しか見えなかったが、ほっそりとした体型と長い黒髪が特徴的だった。話し相手はドアが邪魔をして見えない。
 社長にあいさつをして玄関に向かうと、履いてきたスニーカーがきれいに揃えてあった。気のつく奥さんだなと思った。
 靴箱に女子学生が履くような黒のローファーが見えた。娘でもいるのだろうか。
 娘の話題はなにも出なかったが、社長には息子がいて、今日はいないがここで働いていると話していたことを思い出した。
 仕事だけならまだしも、社長家族にまで気をつかうのは疲れそうだ。面倒な人間関係は勘弁してほしいと瑛一は願った。

 

職場は幽霊屋敷だった?


 蒸し暑い夜だった。真夜中の十二時、日付は月曜日から火曜日に変わろうとしていた。
 雨戸を開け放した庭からはそよりとも風がこない。そばに置いてある蚊取り線香から出る煙は風に揺れることなく天井に向かっていく。
 事務室は瑛一と社長の息子、二人だけだった。
 長野のほうにしばらく出張していたという息子は悟という名前で、二十代後半の小柄な優男だった。色が病的に白い。整った顔をしているのに、どこかバランスがおかしい印象があって、好きになれない。
 社長にいわせると「頭が良くて、どんなことでもすぐに覚えてしまう天才なんだが、ちょっと気むずかしいところがある」という自慢の息子だ。
 そんな彼だったが、一ヶ月も一緒に仕事をしていると、すぐにメッキがはげた。というのも息子は名古屋弁で「えーころかげん」とよばれる、超いい加減な男だったからである。
 元請けにはおべんちゃらを言って、出来もしない仕事を請けてくるが、すぐに仕事を放り投げて逃げてしまい、社員や社長に迷惑をかけるという人間だった。
 こんな時間に、瑛一がワープロのキーを叩いているのも息子のせいだった。
 先週に納品するはずの設計書がなにも出来ていなくて、担当者に社長が怒られたあげく、昨日の朝いちで提出するという約束も守られなかった。というのも息子が行方不明だったからである。
 夕方、社長に連行されてきた息子はしぶしぶ作業に取り掛かり、瑛一は手伝い兼監視役にされているというわけだった。
 息子が先方に「うちはワープロを使ってきれいに仕上げますから」と、胸を張って仕事を請けてきたらしい。
 それは、うちのバイトにワープロをさせるという意味だった。彼はキーをタイプするのが遅く、ワープロが苦手なのだ。手書きで提出すればいいのに、へんなところに見栄を張る。
 彼の書いた乱雑な計算書を、ワープロにまとめるのはうんざりするような作業だった。
 ワープロは画面も実用に耐えられるような広いものへと変わり、アウトラインフォントのおかげで活字並の印刷が可能になっていた。最近はパソコン並みの機能を持ったものもあるらしい。
 普通の文章ならともかく、数式が入るととたんに面倒になる。複雑なところだけレタリングシートに印刷して、デザインナイフでそれを切り取り、印刷した紙に貼り付けた。全部ワープロ専用機でやるよりも、作業を分けた方が効率よく出来る。コピー機で複写すれば問題はない。
 関数電卓と鉛筆を放り投げた息子は、ひっくり返って漫画を読み始めた。飽きっぽいというか、長時間集中することが出来ない性格をしているらしい。
 社長も十一時頃までは一緒に仕事をしていたのだが、疲れたと言って、隣の部屋で休んでいる。
 無口な息子と同じ部屋にいると、気詰まりして重苦しい。瑛一はなるべく息子の方を見ないようにして作業をした。
 FMラジオから『JET STREAM』機長である城達也が告げる、渋い別れのナレーションが聞こえてきた。これが流れてくると布団が恋しくなってくる。
 早く家に帰りたいのだが、どれだけ仕事をやれば終わるのか、見当さえつかない。その鍵を握っている張本人が漫画を読んでは、ときおり不気味な笑い声をあげているのだからなんともならない。
 ワープロに集中していると目の端に、息子が立ち上がるのが映った。やっと仕事を再開する気になったのかと思ったら、机を通り過ごして、事務室から出て行った。
 外で潜り戸を開ける軋む音が聞こえた。また脱走したのかもしれない。
 彼はなかなか戻ってこない。手持ちの仕事が終わっても帰ってこなければ、少し睡眠でも取ろうと考えていると、息子が室内に入ってきた。
 手にコンビニ袋を下げている。椅子に座ると、袋から缶コーヒーとスナック菓子を取り出した。
「前の畑に一本だけ柿の木があるだろ?」
 息子はいきなり話し出した。最初は誰に話しかけているのだろうと、瑛一はワープロから顔を上げて見回したが、彼と自分しかいないことに気がついた。
「そういえば、ありますね」と、瑛一は答えた。
「さっきあそこの前を通ったら、柿の木に何かがぶら下がって、ゆらゆらと揺れているんだよな。なんだろうと思って近づいてみると人間なんだ。黒っぽい服を着た男が首を吊っている。これは警察に連絡しないといけないと思ってさ。家に入る前に、念のためにうしろを振り返ったら、柿の木に何もぶら下がっていないんだ。立ち止まってじっくり見ても、いつものようなただの木さ。おかしいんだ、目の錯覚じゃないと思うんだけどな」
 幽霊を見たというのに、たいして驚いた様子もなく、息子はポテトチップスを口の中に放り込んだ。バリボリとかみ砕く音がして、部屋の中に香ばしい匂いが漂う。
「それって幽霊でしょ。怖くなかったんですか?」
 瑛一の質問に、彼は薄笑いを浮かべると話を続ける。
「たしかにそうかもしれない。だけどさこの家だって、よく出るんだぜ。ここは借家で、以前住んでいたのは、大学の小難しいなんとか学の教授でさ。首を吊って自殺したらしいんだ。それが自分はまだ死んでいないと思いこんでいるらしくて、幽霊になってたまに現れるんだよ。二階に上がる階段があるだろ。そこに座っていることが多くて、妹が何度か見たことがあるんだ。そいつは、死んでからも学者のように深刻ぶった無愛想な表情をしているんだとさ。そうだ、さっきの幽霊はそいつかもしれないな」
 反応を確かめるように瑛一の表情を覗き込みながら、息子は缶コーヒーを飲んだ。
 息子の話で、瑛一はどうしてあの場所が空き地なのか理解した。訳ありな因縁があって放置されているのだろう。それに職場が幽霊屋敷だったとは——思わず顔がこわばる。
 それを見た息子は意地の悪い口調で「白鳥君は恐がりなんだな」と嘲笑うように言った。
 瑛一の表情を楽しむように、息子は袋から直接口の中にポテトチップスを流し込んだ。
 息子はポテトチップスを食べ終わると、仕事を再開した。自分ひとりだけ食べたり飲んだりしているのが、彼らしい。
 結局、朝の九時まで徹夜をして、なんとか設計書は出来あがった。
 息子はワープロのデータを入れたフロッピーディスクを瑛一から取り上げると、ラベルに自分の名前を書きこんだ。
 ワープロ機を小脇に抱えた息子は、社長と二人で事務室を出て行った。担当者に得意顔でワープロ画面を見せる様子が目に見えるようだ。
 瑛一はやっと寝られると、あくびをしながら事務所を出た。外は晴天で太陽がまぶしかった。荒地に立つ柿の木はよく見るとヒョロっとしていて、大人の男性が首を吊れるほど丈夫とは思えない。やっぱり息子の見間違いだったのだろう。
 男の幽霊が住み着いているにしても、いつからいるのだろうか。瑛一は「地縛霊」という言葉を思い出した。夏にテレビで特集される心霊や怪談番組で聞いたことがある。
 地縛霊とは、自分が死んだことを理解出来なくて、亡くなった時にいた土地や建物などに執着する霊のことらしい。その意味では息子の話と合っている。それ以外でも、その場所に特別な理由がある場合も考えられるらしい。
 バイトした職場が幽霊屋敷だったとは、どうりで履歴書もなしで採用されたはずだ。瑛一は振り返って屋敷を眺めた。太陽が降り注いでいるのに、庭のあたりには翳りのようなものが感じられる。
 バスに乗り、学生やサラリーマンに混じって、ふらつく体を支えていると、先ほどの幽霊話が全て嘘だったのではないか、と思えてきた。よく考えれば、あれは息子の話だけだ。不気味な雰囲気のある家だが、本当にそんなことがあるのだろうか。

 

階段の男


 瑛一が数ヶ月働いての感想は、この会社はぬるま湯体質で、よくいえば家族的な、悪くいえばいいかげんなところだということだった。
 社長の人望だけで仕事がくるという、零細企業にありがちな経営をしているようだった。住居兼事務所で社員も少ないから、こんなことでもなんとかなるのだろう。
 瑛一はマンホールの展開図をトレース台を使って複写していた。既設の図面がボロボロになっているので新しく作り直す仕事を、社長が請けてきたからだ。
 トレース台というのは、内部にある蛍光灯で原稿に光をあてて、上にのせた紙に透過させて複写しやすくする道具だ。長時間使っていると、目に良くない。慣れない作業は肩に力が入って、大変に疲れる。
 仕事の手をとめ、首を回し、肩を揉んでいると、二階から笑い声が聞こえてくる。張りのある明るい笑い声だった。耳を澄ますと、最近テレビやラジオで聞くことが多い『Wink』の新曲が流れている。
 二階に娘の部屋があるのだろう。今日は土曜日だったことを思い出した。週休二日制なのだが、やっと家賃を払い終えた瑛一は少しでも働いて生活費に回すために仕事に出てきたのだった。社長たちは休みのようで、職場は瑛一ひとりだった。
 四時過ぎ、トイレに行こうと席を立った。古い日本家屋なので、奥に行くと日当たりが悪く、じめじめしている。トイレは事務室を出て突き当たりを曲がった先にある。
 裏庭に面した通路は、裏にある家に陽がさえぎられていつも薄暗い。とくにトイレは陰気な感じがして、日中でも落ちつかない。誰かに見られている気がして、うしろを振り返ったことがある。夜中には絶対に入りたくない場所だ。
 事務室に戻る途中、二階に上る階段に人影が見えた。
 黒っぽい靴下に黒みがかったスラックスが目に入った。誰かが階段の途中で座りこんでいるようだった。
 仕事の続きをしながら、いつ社長が帰ってきたのだろうと思った。
 それにしても、どうして階段に座っているのだろうか――瑛一が、二階にある娘の部屋にいかないように見張っているのか。そんな気がしていやな気分だった。
 それほど、自分は信用されていないのだろうか。未だに社長が娘の話題を出さないのもおかしな話である。
 五時をまわり、もうすぐ帰る時間だなと思ったときに、ベージュの作業服を着た社長が事務室に入ってきた。
「白鳥君、そろそろ、仕事を切り上げたらどうだい」
 社長はいつものように、人の良さそうな笑顔で話しかけてきた。
 瑛一があいまいな返事をすると、社長は椅子に座り、庭のほうに椅子を回転させると「測量士の勉強をしているときだったかな。疲れて頭を休めようと庭を見ていたら、樹の上に大きな光るものが浮かんでいるんだ。それを眺めているうちにわかったんだ。これは私を迎えに来たんだってね」
 社長の顔は紅潮して、見開かれた目は燃えるようだった。頭の中ではそのときの映像が再生されているのだろう。
 困惑する瑛一が目に入らないのか、社長は唇を舐めると、言葉を続ける。
「今で言う、UFOだと思うんだ。昔は空飛ぶ円盤とか呼ばれていたけど。当時は勉強して資格を取るという目標があったから、あちらの世界に行くことは諦めたんだ」
「そうなんですか」と瑛一は気の抜けた返事しか出来なかった。
 こんな社長で大丈夫なんだろうと、瑛一は心の中で思ったが、態度に出さないように愛想笑いを浮かべながら、帰り支度を始めた。
 会社を出て、大通りに出るために歩いていると、何かひっかかるものを感じたが、それがどんなものかよくわからない。
 通りに面した場所に古本屋があり、バスを待っている間の暇つぶしに便利だった。名古屋の古本屋街である上前津・鶴舞から離れているためか、庶民的な値付けがしてあって、貧乏な瑛一でも気軽に古本を買えるのが気に入っていた。
 店頭に置かれたラックには、三冊百円の文庫本が並んでいる。面白そうなものを物色しているうちに、先ほどの違和感の解答が閃いた。
 階段に座っていた男は、息子の言っていた元教授の幽霊だったのではないか。あの話は息子が自分を揶揄うための作り話と思い込もうとしていたが、実話だったかもしれない。そう考えると、文庫本にかけた指先が震えるのだった。

 

社長令嬢


 社長は現場歴が長いだけあって、測量用のポールを持って走る動きに無駄がない。瑛一と息が合うというか、リズムがぴたりと一致する。
 測点を落として、次に移動する位置を予測しながら、器械をのぞきこむと、そこに社長のポールが立っている。外業と呼ばれている屋外作業も、社長となら楽しく作業できて疲れることもない。
 平板測量はエスロンテープを使うので、通行人や車両にテープを引っかけない慎重なテープまわしが重要だ。社長は基本に忠実で、道路を中心にきれいな円を描いて、平板を据えた場所に戻ってくる。
 社長が図面を仕上げるあいだ、瑛一は付近にある家の名前やビルの名称を調べて、野帳に書きこんだ。もう夏休みに入ったのか、道を歩く学生の姿が目立つ。
 仕事がすむと、二時近かった。汗をかきながらの屋外作業はあんがいと気持ちの良いものである。
 仕事を始めるときには真っ白だった用紙が、作業が終わると道路や建物が書きこまれた平面図に仕上がっている。出来あがった図面を筒にしまうときの、なにかをやり遂げたという達成感。この気持ちは実際に体験しないとわからないだろう。
 会社に帰る途中で、そばでも食べていこうということになった。
 社長は安全運転なので、作業車に安心して乗っていられる。
「うちの息子は、ちょっと甘やかしたのがいけなかったのかもしれない。やれば出来るんだけどな。うちは代々真面目な家系で、ひとりだけ、明治時代に家出をして人力車の車夫をしていたという変わった人間がいたんだ。あいつは、その変人先祖の生まれ変わりかもしれないって、女房に話したことがあるんだ」
 社長は息子の実態がさらけだされたのがわかったのか、以前のようにほめることはなくなって、そのかわりに愚痴が多くなっている。
 田代本通りを西に向かっていると、学校が見えてきた。
「すぐそこに高校があるだろ。あそこに娘が通っているんだ」
 社長は自慢げに言った。
 地下鉄でたまに見かける制服の女子学生が歩いていた。白のブラウスの左胸に丸い校章がついている。ソックスも白だ。名古屋でも有名な私立の女子高だということを思い出した。
「それって、有名なお嬢様学校じゃないですか」
 瑛一の驚いた様子に気分を良くしたのか、社長は声をはずませた。
「そうだよ。息子は定時制高校だったけど、娘にはいいところにいかせてやりたかったんだ。なにしろ、うちの女房もそこの卒業生だからな。ほら、男女共学だったりすると、悪い虫がついたりするだろ。女子高だったらそんなこともないだろうし。娘は俺の言うことだったら、どんなことも逆らわないからさ」
 一度も見たことがない社長の娘は、典型的な箱入り娘のようだ。今どき、父親の言うことを素直に聞くような女性がいるとも思えないが、社長の夢を壊すようなことも言えない。
「今年で卒業だけど、就職はさせないで花嫁修業をさせるつもりなんだ。本人は体操部に入っているから、そっちに行きたいらしいんだがな」
「今どき珍しい。職業家事手伝いというやつですよね」
 瑛一はあたりさわりのない返事をした。社長だけがそんな事を思っているだけで、本人や奥さんは別の考えだろう。
 といっても、瑛一は社長令嬢の顔さえ見たことがないのだ、たまに二階から聞こえる笑い声だけの存在なのである。さほど関心があったわけではない。
 本山に、娘について聞いたことがある。彼でさえ、姿を見たことはあっても話をしたことがないという。——スタイルはいいけど平凡な顔立ちで美人の奥さんとは似ていない、というのが彼の評価だった。


散乱する衣服

 瑛一がバイトに来てから一年が経っていた。滞納していたアパートの家賃を支払うために働き出したのだが、いつの間にかぬるま湯のような生活に慣れてしまっていた。
 瑛一は、息子が起こした不始末のために、請け負い先に呼びつけられていた。自分の責任ならいざ知らず、他人の尻ぬぐいというのは疲れる。濡れ衣を着せられて収監された男の気分だ。
 修正箇所の付箋が大量につけられた書類と図面を抱えて、会社に戻ってきた。先月から社長がいないことがよくある。そのせいで、瑛一が取引先に謝りに行くことが多くなっている。
 ここを辞めて、違うバイトでも探そうかと思っているのだが、瑛一の代わりになる人間が来ないと無理な話だった。
 社長と二人で打ち合わせに行くと、担当者から親子と間違われることが多かった。どうやら社長と瑛一は、外見や感じがよく似ているらしい。
「なんだか白鳥君は、俺の息子のような気がするんだよ」
 そんなことがあるたびに、社長はうれしそうに言った。
 こうしたことを臆面もなく、さらりと言うところが社長のうまいところだ。言葉にまったく作意が感じられないのである。
 今日は朝から、春のぬか雨が降っている。
 あのいかめしい門は閉まっていた。なぜかこの門が開いているのを見たことがない。いつも棒状の閂が裏からかかったままだ。書類がぬれないように上着の中にいれ、傘を閉じて、潜り戸を通った。
 玄関に行く途中、不思議な光景が目に入った。
 庭に大量の服がばらまかれているのだ。
 近寄って見ると、女性用の服ばかりだった。ブラウス、スカート、色や形からして若い女性のものだ。その中で白いブラウスが目にとまった。左胸に見覚えのある校章が付いてる。
 きっと社長令嬢のものだろう。純白な服に泥がついて無残な状態になっている。清純なものが汚されている――そんな感慨がわいてきて、思わず目をそらした。
 洗濯をしていて、庭に落ちたのだろうかと思ったが、雨の日にわざわざ大量の服を洗濯するわけもないだろうし、強い風が吹いているわけでもない。
 拾ってやろうかとも思ったが、女物の服というのに抵抗があった。へんに誤解されるのもいやだ。
 見なかったことにして玄関から事務室に向かった。家は誰もいないのか静まりかえっている。
 障子は閉まっていて、庭を見ることは出来ない。もう一度散乱している服を見てみたい気もしたが、それをためらう感情のほうが強い。
 社長令嬢は先月、高校を卒業したはずだ。花嫁修業と称して社会に出ることさえ許されず、カゴの鳥のように二階で生活しているのだろうか。
 近頃は二階から物音さえ聞こえてこないから、ひょっとするとどこかよそに花嫁修業に出されているのかもしれない。
 仕事に集中することにした。時間が経つにつれ、あの服のことが気になってくる。ひょっとして超常現象の一つであるポルターガイストではないのかと考えたりした。この家は、自殺した男の亡霊が住む幽霊屋敷なのだから、そんなことが起きてもおかしくはない。
 誰もいない部屋で、狂ったように舞い踊る洋服達。何十人もの透明人間が勝手気ままに服を着用して遊んでいる。やがてベランダに吹き寄せられると、そこから次々に飛び降りていく。庭に降り立った服から透明人間たちは空気が抜けるように消えていき、最後に抜け殻のような服だけが残る。なぜかこんな空想が頭に浮かぶ。
 瑛一は妄想を追い払うように、頭を振った。頬が火照るのを感じる。
 頭を冷やすため、顔を洗おうと思った。
 トイレに行く途中、台所に人影が見えた。話し声も聞こえないのに誰だろうと、こっそりと覗いた。ひょっとしたら例の幽霊かもしれないと思ったからだ。
 社長と奧さんらしき女性がキッチンテーブルにうつむくように座っている。外は雨だというのに照明もついていない。どうしたのかと、聞くのを躊躇するほど深刻な様子だった。
 気がつかれないように忍び足でトイレに向かった。
 五時半になり、帰ることにした。台所から社長は消えていた。瑛一が大きな声で「帰りますよ」と声をかけると、奥のほうから「ご苦労様」と元気のない細い声が聞こえてきた。
 玄関から出ると、庭にあった服はすべてなくなっていた。あれは錯覚だったのだろうかと思ったほどだ。
 よく見ると、服が散らばっていたところに、雨で崩れてはいるが靴跡がいくつも残っている。靴跡は紳士靴のものだ。ということは社長が片付けたのだろう。
 いったい何があったのか、興味はあるが、知りたくない、そんな気持ちだった。

 

のぞき込む男


 バブルが弾けて株価が下落を始めた頃、瑛一は仕事で長野市に行くことが多かった。宿泊先は長野市の東側、須坂市に近い場所の一軒家だった。ビジネスホテルに泊まるよりも、安くすむということで、仕事先からそこを紹介してもらい、出張所のかわりにしたわけである。
 そんな暮らしをはじめてから、二ヶ月後のことだった。瑛一と本山、社長の三人は、山に鉄塔を建てるための調査測量で、その家に泊まり込んでいた。
 夜には社員二人が玄関近くの部屋に枕を並べて眠り、社長は奥の部屋で一人で過ごすという生活スタイルだった。
 山に入る仕事というのは重労働で、一週間もやれば体重が五キロは減る。その日も、全員が疲れ切って、夜の八時には就眠についた。ただ働くだけの生活だったが、暗い世の中から目を背けるように、味気ない暮らしに耐えていたのである。
 朝、瑛一は体を揺さぶられる感覚でしぶしぶ目を開けた。
 枕元に本山が真剣な表情をして座っている。
「昨日、おかしなことが起きませんでしたか」と、いきなり聞いてきた。
 瑛一は「何もなかったけど」と、首を振りながら言った。
 時間を確かめるように外を見ると、朝が明けたばかりだ。季節は夏の終わり、日の出は五時過ぎだから、たぶん六時ぐらいだろう。
 もう一度寝ようとした瑛一を引き留めるように、本山は「実は……」と話しはじめた。
「昨日、ふと目が覚めておかしな気配がするなと思って、横に寝ている瑛ちゃんの方を見たら、いたんですよ。背広を着た男が瑛ちゃんの顔を、じっとのぞき込んでいたんです。誰なんだろう? と思って、こんな夜中に背広姿をしているのも変だし。泥棒がそんな服装をしているのもおかしい。うわーこれは幽霊かもと思ったら、怖くなって。布団の中に潜り込んで、こっちに来ないでくれと思いながら眠れなかったんですよ」
 話し終えた本山は瑛一の方を見た。彼は先輩とはいえ、年齢は瑛一よりも一つ下だ。だからなのか、言葉遣いは丁寧だ。
 瑛一は本山が寝ぼけて、おかしなものを見たんだろうと思った。彼は日焼けした、屋内作業よりも現場に出るほうが楽しいという現場人間だ。若いのにオヤジじみたところがある。

 朝食の時、幽霊話が話題になった。
 食後のお茶を飲みながら、社長はからかうように「本当に何もなかったのかい」と瑛一に尋ねた。
「ぐっすりと眠っていたから覚えてませんが、何も変わったことはありませんでしたよ」と、迷惑顔をして答えた。
「のぞき込んでいた男はどんな様子だったんです」
 瑛一は、本山に訊いてみた。
「座り込んで、ちょっと斜めに体を向けていたから、表情とかわからなかったけど、ほっそりとしたインテリっぽい感じがしました。年齢はよくわからないなあ、若いようにも中年にも見えました」
「背広姿というおかしな格好からして、泥棒というわけでもなさそうだ。本山君が寝ぼけていただけじゃないの。仕事の疲れがたまっていて、悪い夢でも見たんだと思うよ」
 瑛一の疑問に、本山は首をかしげるだけだった。
 社長は湯呑みを持ったまま、身を乗り出してその話題に聞き入っている。目が笑っていて、なんだか妙にうれしそうだ。
 社長は大きなUFOが自分を迎えに来たとか、キツネにだまされて一晩同じところをぐるぐる回り続けたという、うさんくさいことを得意げに語るところがあって、幽霊話に興味津々というふうに見える。
「俺は本山君が本当に幽霊を見たと思うな。だいたい彼が嘘をつくわけがないし、夜中に背広を着ていたとか、どうして幽霊が白鳥君を見ていたのか、そんなことは幽霊にでも直接訊かないとわからないことだろ。こうした話というのは合理的な解決がつかないのがあたりまえなんだよ」
 そう言った社長は腕を組み感慨深げにうなずいた。
 たしかに本山は測量よりも農作業が似合いそうな純朴な青年だったので、嘘をつくことはないだろう。寝ぼけたのか、悪い夢を見たか、そんなところだったのだ、とは思うのだが、社長の手前そうしたことはいいにくい。
 瑛一の本山寝ぼけ説は、社長の本山性善説に取って代わられ、結局、幽霊は実在したということになった。
 食事を終えた瑛一たちが、仕事までのひとときを過ごしていると、社長が隣室から顔を出して「こんなのはどうだい」と短歌用箋にペンで書かれたものを差し出してくる。

冷え冷えと 闇に浮かぶは 誰の声 寒風が吹いて 消えてゆく影

 今朝の幽霊騒ぎを題材に短歌を詠んだということらしい。季節は秋めいてきたというのに冬になっている。「誰の声」ってそんなことあったのかと疑問が湧いてきたが、そこは創作だ、構わない。
「不気味な雰囲気が出ていますね」と瑛一は答えた。
「そうだろ。とっさに閃いたにしてはいい感じだと思うんだ」
 表情を明るくした社長は満足そうに頷いた。雑誌に今の短歌を投稿するつもりなのだろう。

 一週間ほど経って、瑛一は元請けの長野支店で図面整理をしていた。
 仕事を回してくれる田柴が近づいてきた。落ち着かない様子であたりを見回してから、声をひそめて瑛一に話しかけてきた。
「あの家で幽霊が出るとかいう話だけどさ。近所でいろいろたずねてみたけど、誰もそんなことは知らないというんだよな。本当におたくの本山君はそんなものを見たのか?」
「あれですか、たぶん本山が寝ぼけだけだと思いますけど」
 瑛一は気恥ずかしくなり、彼に頭を下げた。
「そうだろ。俺もそう思ったけどさ。社長が真剣な顔をして言うもんだから」
 安心したのか、急に明るい表情になった田柴は、瑛一に「おまえも苦労するよな」と、苦笑しながら言った。
 社長がなにかのついでに例の話をしたのだろう。
 あの家には、田柴の紹介で入居できたのである。だからおかしなことがあったら、彼も困るから、自分なりに探りを入れてくれたのだ。
 社長は人の良さそうな外見から、取引先からは信頼が厚い。世間からは常識のある人物と見られている。
 オカルト話が好きな人物とは、社員以外は誰も知らない。
 もっとも田柴とは腹を割った話をする仲だから、そんなことも話したのだろう。

 午後から天気予報が当たり、雨が降ってきた。小雨くらいなら作業を強行するのだが、次第に雨足が強くなってきた。赤いヤッケに着替えた社長が「白鳥君、雨が酷くなりそうだから、上がろうか」と声をかけてきた。
 作業車に戻り、仕事で使った機器を錆びないように、タオルで拭いていると、本山が匂いを嗅ぐように鼻を鳴らした。
「今、思い出したんだけど、あのときの幽霊、湿った土の匂いがしたような気がする」
 本山は足元の雨に濡れた土を見ながら呟いた。
「本山君、それは確かなのかい」
「昔、畑で嗅いだことがあるから、確かだと思うんだけど」
 社長の質問に本山は自信なさそうに答えた。
 雨で仕事が中断したのが気になっているのか、帰りの車中でいつになく社長は黙り込んでいた。いつもは世間話に花を咲かせるのだが。

 瑛一は誰かの話し声で目が覚めた。時計を見ると、午後十時だった。横にいる本山はぐっすりと寝ている。話し声は隣の部屋からするようだ。耳を澄ませると、どうやら社長が携帯電話で奥さんと話しているらしい。
「一週間前に……俺がいない時はしっかり戸締りしておかないと」
 という声が途切れ途切れに聞こえてくる。
 携帯電話は料金が高く、社長だけが持っていた。
 社長が家に連絡をしているだけのようだ。瑛一は興味を失い、再び布団に潜り込んだ。

 

妄執

 夕方の渋滞だった。天白川にかかる橋の手前は五時近くなるといつも混雑する。なにしろ名古屋市内に入るには橋を渡るしか方法はないのだからしかたない。社長と瑛一は知多半島の方に仕事の打ち合わせに行った帰りだった。
 隣で車を運転している社長は、渋滞にうんざりしたのか、疲れた表情をしている。
 瑛一はポンコツ車がいつ動かなくなるのか不安に思いながら、ラジオを聴いていた。
 社長専用車は廃車寸前の古いローレルで、機嫌が悪いとエンジンがとまることがあった。
 自動車に詳しい本山によると、この車は解体屋で雨ざらしになっているのが一番似合うらしい。取引先の社有車を払い下げというか、押しつけられたもので、それ以来社長が乗り続けている。
 社長に「買い換えたらどうですか?」と提案したことがある。
「せっかく先方に譲ってもらったんだ、壊れて乗れなくなるまで使うつもりだよ」
 というのが社長の返事だった。
 瑛一がそんな提案をしたのは、取引先の担当者に「おたくの社長が乗っているボロ車な、あれを見るたびに、新車にしたいので仕事をください、と脅迫されているような気分になるんだよ」と冗談混じりで言われたことがあったからである。
 ふだんは仕事や昔の話をしてくる社長なのだが、今日は朝から無口だった。
「白鳥君、インストラクターってどんな職業なんだい?」
 いきなり社長が訊いてきた。前を向いたまま、真剣な眼差しをしている。
「インストラクターといえば、スポーツジムとかで生徒にいろいろ教えたりする、指導者のことですよ」
「うさんくさい職業のような気がするんだが。そんなことで食っていけるのかな」
「そりゃ、人それぞれじゃないですか。あまり儲かりそうな印象はないですよね」
「そうだろ、そんな趣味でやっているやつがだな、女房子供を食わしていけるわけないんだよ」
 急に声が高くなり、興奮したような社長の態度に、どこか歪なものを感じた。
「こんな事は恥ずかしくて言いたくなかったんだが。娘の優子だけど、つきあっている男がいると言うんだ。体操部のコーチで来ていて、仲良くなったらしいんだな。まったく教え子に手を出すなんて最低の男だ。白鳥君もそう思うだろ」
 なるほどと思った。以前から感じていた社長のおかしな行動。その理由がはっきりした。
 自分のいうことは絶対に聞くと自慢していた娘が、男を作ったのだ、さぞかしショックだったに違いない。
 それも悪い虫がつかないように、私立の女子高に入れたもくろみが裏目に出て、指導に来ていたコーチにかっさらわれるとは、予想さえしていなかったのだろう。
 今どき、親に従順な娘はいませんよ、と瑛一は言いたかったが、それはあまりに酷だったので黙っていた。
「うちの娘だけは違うと信じていたのにな。女っていうのは一度男に惚れると、親のいうことなんか無視するんだよ。まったく女はどうしようもない生き物だな。それで、あまりに腹が立ったからさ。二階に行って、娘の服を全部引っ張り出して、ベランダから投げ捨ててやったんだ。そうすれば、着るものがないから、外に出ていって男に会うことは出来ないだろ」
 庭に散乱していた服を思い出していた。やはり社長が関係していたのかという思いとは別に、動機の異様さに驚いた。
 そこまでやるのか。自分の所有物でもあるまいに。そんなことをすればかえって逆効果にしかならないだろう。
 瑛一はさりげない仕草で社長の横顔を覗いた、何か思い詰めたような表情をしている。
「白鳥君、気分を変えるか、そこにあるカセットテープでも聴こう」
 ダッシュボードに入っているテープを取り出せということなのだろう。探すとテープが何本か入っている。
 どれがいいだろうかとテープのタイトルを見比べた。
 美空ひばり、山口百恵、どれも社長のお気に入りの歌手だ。一本だけ見慣れぬテープがあった。
 手書きでタイトルが書かれている。『Wink』の曲だった。
 こんな若向きのものも聴くんだと思ったが、タイトルは明らかに女性の字、それも丸文字という女子学生特有のものだった。
 なにか違和感があったが、美空ひばりよりもましだろうと思い、それをデッキに入れた。
 曲が流れてくると、社長は語気を荒くして「それはやめてくれないか」と言った。
 瑛一はあわてて、美空ひばりと入れ替えた。やがて「川の流れのように」の歌が流れてくると、社長は機嫌が直ったのか、歌詞を口ずさみ始める。

 

新事務所


 瑛一は国土地理院が行う『測量士補』試験に合格して、社員になっていた。資格試験に興味があったわけではないが、社長がうるさくいうので受験しただけだった。
 十月の終わり、急に事務所の引っ越しが決まった。
「仕事も増えたし、これからは心機一転して、がんばろうということで、事務所を変えることになったからな。みんなこれからも頼むよ」
 朝、皆を集めた社長は事務所移転の説明をした。悩みが消え、すべて吹っ切れたような明るい表情をしている。
 だが、人目のない場所では、しきりに腕時計を見たり指輪をいじったりと、自分を無理やりに押さえつけているような気がする。
「新事務所は八事のほうらしい。近くには中京テレビもあるから、そんなところだったらみんなに自慢出来るな」
 本山は弾んだ声で言った。
 彼は、事務所が普通の民家ということに不満を感じていた。そんな会社で働いていたら彼女が出来ないと、いつも嘆いていたのである。だから、今回の引っ越しに大賛成で、顔を綻ばせていた。
 瑛一はファイル類を入れた段ボール箱を玄関に運ぶ作業をしていた。キッチンの横を通るとき、社長夫婦の話し声が漏れ聞こえてきた。
「どうして家を売らないの。移転費用だって結構かかるのに」
「いいじゃないか。このままにしておこう。ここはおまえとの思い出が詰まっているから。金の問題じゃないんだ」
 何気ない会話だったが、瑛一は違和感を覚えた。社長の息子はこの家は借家だと言っていたはずだ。社長夫人の言葉からすると持ち家ということになる。さほど儲かっているように思えないのに、家を処分もせずに新事務所を借りるというのもなにか腑に落ちない。
 とはいえ、新しい事務所にいけば、幽霊の出る家から離れられて、社長一家のもめ事に巻き込まれることもなく、ストレスから解放されるだろう。
 社長が借りてきた二トントラックで、事務所の荷物を皆で運んだ。息子は、自分の荷物を新しい家に運ぶからといって、手伝うことなく出て行った。会社が心機一転しても、彼の性格が変わることだけはない。
 社長一家も事務所の近くに家を借りたらしい。そこは高級住宅街と呼ばれている地域だ。知り合いから安く借りたと言ってはいたが、ずいぶんと景気の良い話だ。社長令嬢のことはタブーになっているらしく、話題にのぼることはなかった。

 山手通り、八事日赤の近くという高級住宅街に建つビルは、高級マンションやテナントビルの中で、窮屈そうだった。狭い地所にむりやり建てられていたからである。
 三階建てのビルは、一階に大家の家族が住んでいて、上二階分が貸し事務所という構成だった。三階にはテレビ関係の下請け会社が入っていた。すぐ近くに中京テレビがあるので、歩いて行ける場所に事務所があるのは好都合だったのだろう。
 瑛一の会社は、空いている二階に事務所を借りることになった。
 そこは事務所というには無理があるほど、狭い部屋だった。というのも、二階だけ二部屋に別れていたからだ。隣は一階にある大家の部屋から階段でつながっていて、大家の子供の部屋になっているという。隣の部屋の階段部分が事務所のほうに出張っていて、ただでさえ狭い場所をさらに窮屈にしていた。
 そんな中途半端な部屋の作りが災いして、長いあいだ借り手がいなかったらしい。そのため、零細企業の瑛一たちでもこんな場所を借りられたのである。
 名古屋市八事に事務所を構えることができたのはこういうわけだった。なにしろ、山手通にある小洒落た喫茶店の珈琲代は普通の倍もするのである。
 しばらくするうちに、事務所ビルのオーナー一家の内情が判明した。他人の懐に入るのが巧みな社長が、オーナーから聞き出してきたのである。
 隣の部屋には、大家の息子が住んでいて、彼は高校生だというのだ。学校に通っている時間は不在だからいいのだが、午後から時々うるさくすることがあった。
 隣の騒音は、圧迫感がある部屋でいらだつことが多かった瑛一たちの気分を、さらに不快にさせた。狭い場所に閉じこめたモルモットは、ストレスで共食いをするという話を聞いたことがある。
 気の短い息子は、そんなときに隣の壁を蹴った。すると、すぐに静かになった。そんな事が何回か続いた。瑛一たちと隣の住人は、仲の良い隣人ではなかったのである。

 

隣室の住人


 瑛一が長野の出張から、一週間ぶりに事務所に帰ってくると、一階で葬式が行われていた。
 出張先から持ち帰った資料を整理していると、喪服を着た社長が入って来て「大家の娘が亡くなったんだ」と話し始めた。
「遺影で見たが、可愛い女の子だったよ。今年、中学を卒業するはずだったのに。親御さんが気の毒で見ていられなかったな」
 自分の娘が亡くなったといわんばかりに、社長はため息をついた。
 大家には病気で寝込んでいる娘がいるらしいと、社長から聞いた事があった。
 不憫には思ったが、顔見知りならともかく、一度も会ったことのない赤の他人ではあまり実感がわかなかった。

 音量を絞ったラジカセからユーミンの『卒業写真』が流れてくる。
 世間では卒業式のシーズンになっていたのだ。窓から、筒をかかえた学生が大通を歩いているのが見える。
 八事周辺は名古屋大学をはじめ、いくつもの大学がある文教地区で、学生の多い所だ。
 いきなり、隣から大音量でピンク・レディーの『UFO』が聞こえてきた。
 今回はいつもの騒音とは違ったものを感じる。瑛一たちはベランダに出ると、隣の様子をうかがった。
 隣のベランダで、派手なスパンコールの衣装、下はホットパンツという姿をして、踊っている人間がいる。脇に置かれたラジカセから音楽が流れていた。
 片手を頭の上にあげ、手を開く。腕を組んで左右に激しく振る。昔テレビで見たことのある振り付けだった。
 外見は女性のようだが、体形は男だ。隣に住んでいる高校生に違いない。
 彼の視線の先に、制服を着た少女が見えた。道路のガードレールに、もたれかかるようにして立っている。青白い肌をした、可愛らしい面立ちの少女だ。体つきからするとまだ中学生くらいだろうか。
 隣の住人は、その少女に向かってパフォーマンスをしているのだろうと思った。
「青春だな……」と、後から声がした。
 振り返ると、息子が腕をくんで、なにかを懐かしむような表情を浮かべている。いつもの冷笑ではなく、うらやましくてしょうがないというふうだ。
 隣の男は卒業していく後輩に、自分の演技を贈ろうとしているわけか。手作りの衣装からして、ずいぶん前から計画されていたのだろう。
 彼の真剣な表情を見ていると、騒音の苦情を言う気にはなれなかった。皆黙りこんで、ベランダから熱演を見つめた。
 演技は佳境に入り、白粉を塗った顔に、流れ出した汗がまだら模様を作っている。
 瑛一は見るのに飽きて、部屋に戻った。社長は男の視線の向こうにいる少女のほうを見つめたままだ。
 仕事に戻ると、息子が「あいつは、うるさいやつと思っていたけれど、意外といいやつだったんだな」と、男を認めるような柔らかい口調で言った。
 無口なうえに、人をけなすことはあっても、ほめたりしない息子にしては珍しかった。共感するものがあったのだろう。
 社長はベランダから部屋に戻ってくると、瑛一の顔を見据えて、口を開いた。
「あの少女、どこかで見たような気がしたんだが、やっと思い出した。あれは最近亡くなった、大家の娘だよ。遺影にそっくりだ」
「えっ、ということは、後輩ではなく、妹の卒業祝いをしていたと……だって、病死したんでは」
 瑛一は言ってから、あわててベランダに出た。少女を確認しようとしたが、いなくなっていた。
 隣の住人は、誰もいない空間に向かって、手の甲で涙を振り払うような仕草をしながら、まだ振り真似を続けている。
 しばらくして音楽が鳴り止んだ。
 急に静けさを取り戻した部屋に、通りを走る車の騒音が入りこんでくる。窓を開け放したままだったことに気がついて、閉めるために近寄ると、隣からすすり泣くような声が聞こえてくる。
 やりきれない気分になって、静かに窓を閉めた。
 あの少女が亡霊だったのか、それはわからない。
 社長がああいうから、そういえば影が薄かったなどと思ったりするのだが、あの少女は面白がって見ていただけの通行人なのかもしれないのだ。
 それに、隣の男は少女=妹が見えていたのだろうか。
 今日のことを病床で約束していたから、目には見えない妹に向かって演技をしていただけなのかもしれない。
 そんなことを考えているうちに、漠然とした、自分では取り扱いきれない感情がこみ上げてきた。現場にでも出て頭を空っぽにして汗を流したら、スッキリとするだろうか。瑛一はラジオから流れてくる音楽に身を任せた。

 その後、なんだかしんみりとした気分になった瑛一たちは、隣から騒音がしても、誰も壁を蹴らなくなった。
 特に社長は、何か感じるものがあったのか、考えこんでいることが多くなった。
 息子は相変わらず、事務所に来たり来なかったりしていた。たまに出てくると、ラジカセで同じカセットテープをかけるので、周りをうんざりさせた。息子がいないほうが、よほど仕事の能率があがるのにと、瑛一と本山は彼のいないときによく話したものだ。
 そんなある日、事務所にあった息子のラジカセが消えて、小さなFMラジオが置かれていた。
 たぶん、社長が気をきかせて、ラジオにしたのだろう。それとも息子が、自分のテープを他人に聴かせるのがいやで、ラジカセを持って帰ったのかもしれない。

 朝、瑛一が出社すると、社長から電話があり、元請けの会合に出るように頼まれた。会合というのは、下請け業者の団体『共同会』で、数十社の代表者が会議室に集まって、業務連絡やその他の情報交換をするらしい。
「俺はああした集まりでの付き合いが苦手なんだ。とにかく誰でもいいから顔を出しておけばいいんだ。だから、頼むよ」
 社長は会合の時間と場所を伝えると、すぐに電話を切った。瑛一には断る権利はなさそうだった。
 出席してみると、その月の事故報告や業務連絡があっただけで、たしかに社長が出る必要もなさそうだ。周りを眺めると、作業服姿の中年男性が多い。中にはメーカーからの参加者なのかスーツを着た営業マンもわずかだが混じっている。
 作業服を着た瑛一はその若さからか、オヤジたちの中で一際浮いているようだった。
 会合が終わると、瑛一は逃げるようにして真っ先に会議室を出た。
 気疲れしたので、三階にあるリフレッシュルームに立ち寄って一休みすることにした。自販機が二台、テーブルも二台あるだけの狭い空間だが、窓からビルの内部が見通せる。馴染みのある部署が一部だけ見えて、社員が動き回る姿がわかり、蟻の巣箱を眺めている気分になる。
 カップコーヒーを飲んでいると、一人の男が入ってきた。背の高い痩せた中年男性だ。紺色の作業服には「城崎測量設計」とネームが入っている。
「君は黒河内のところの若い人かい。社長は忙しくてサボったというわけか」と瑛一のネームを見ながら、皮肉な口調で話しかけてきた。彼のことは社長から噂だけは聞いていた。やり手だが金にうるさい嫌な奴と社長は評していた。
 瑛一はカップをテーブルに置き、立ち上がると挨拶をした。
「急に用事が出来たらしくて、私が代役というわけです」
「君は社長に似ているけど、親戚かい」
 馴れ馴れしい態度になった城崎は、瑛一の真向かいの席に座って、持参した水筒から紙コップにお茶を入れた。
「よく間違われるんですけど、赤の他人です」
 瑛一の答えに、なんだというように薄笑いを浮かべた城崎は「社長は女にモテるから、君もさぞかしモテモテなんだろうな」と下卑た仕草で小指をくねらせた。
 こんなふうに絡まれるのが嫌で、社長は自分に代役を押し付けたのだろうと瑛一は考えた。
「社長はそんなに女性から好かれるんですか」
 自分のことを避けて、社長に話題を振ってみた。城崎の表情から判断して、彼が社長について何か言いたくて、仕方ないといったふうに見えたからだ。
「再婚した奥さんを見ればわかるだろ。あんな上品できれいな女は滅多にいないぞ。どうやってものにしたんだろうな」
 口の端を歪めて城崎は悔しそうに言った。
 どう答えていいか瑛一が考えていると、城崎の知り合いなのか、初老の男性が「城崎さん、ちょっと」と声をかけてきた。
 それを機に瑛一もコーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がった。

 事務所に戻るとちょうど昼になりそうだったので、瑛一は地下鉄杁中駅で降りて、聖霊病院近くにあるうどん屋に入ることにした。十二時前だったので、席は空いていた。
 うどん定食を頼んで、待っている間に、社長は再婚だったという話を思い出していた。すると、息子と娘は年齢からして、社長の連れ子ということなのだろう。もしかすると、あの家は奥さんのもので、夫が自殺したあとに社長がそこに入り込んだということもありそうだ。社長の誠実で頼もしそうな外観、人の心に滑り込むスキルがあれば、どんな美人でもなんとかなりそうだ。ましてや、夫を失って失意のどん底にあったとすれば。
 そのとき、頼んだ食事が届き、考えは中断した。うどんを口に入れながら、考えを再開する。
 中年男性の幽霊が、奥さんの前夫だとすると、幽霊になって現れる動機は息子が言っていたように「自分が死んだことを知らない」というのではなく、恨みを持っていて成仏できていないだけということになる。
 そしてその恨みは自分の妻を取られたというものではないのか。それを思いついたら、噛んでいたうどんの味が変わり、異物を食べているような感触に襲われた。
 食欲をなくした瑛一は、箸を置いて気分を変えるために窓から外を眺めた。店内が混み始めてきたので、瑛一は残りのごはんと漬物をあわてて掻き込んだ。
 事務所に戻るために、坂道を登りながら瑛一はまだ考えていた。今度は長野市で本山が見たという幽霊のことだ。寝ている瑛一を覗き込んでいたというが、実はあの幽霊は社長と間違えて、瑛一の顔を見ていたのでないか。その後、本山から土臭い匂いについて聞いた社長が態度を変えていたことも気になる。
 事務所に戻ると、本山が椅子を繋げてベッド代わりに昼寝をしていた。ラジオからは音量を絞った流行りの音楽が聞こえている。

 

幽霊屋敷再び


 開け放した窓から春のさわやかな風が入ってきて、気持ち良かった。
 今日は土曜日。午前中に仕事が片付いたので、社長の携帯電話に午後から帰ると伝えようとしたが出ない。最近の社長はなにか悩みでもあるのか、ぼんやりとしていることが多い。
 瑛一のほうは、消化しきれないほどの仕事を抱えこんでいた。社長にバイトを雇うように頼んでいるのだが、返事がなくて困っていた。
 会社を出て、八事日赤から杁中に向かった。久しぶりに自転車に乗って、古本屋巡りをしようと思ったからだ。
 杁中には学生時代から通っている古本屋がある。店頭に置かれた均一本を五冊選んでレジに運んだ。
 古い創元推理文庫を見つけたので、気分が良くなり、このまま家に帰るのが惜しくなった。こういう日はもっと攻めるべきだ。
 旧事務所のすぐそばにあった古本屋を思い出した。そういえば、あの家はどうなっているのだろうか、急に懐かしくなってきた。
 地下鉄の杁中駅から西に行くと、旧事務所の通りに出る。
 二十分ほど自転車を走らせると、あの家についた。引っ越したときからなにも変わっていない。
 誰か新しい借り手が住んでいるのだろうか、あの幽霊はまだ家に取り憑いているのだろうか、そんなことを瑛一は思い浮かべた。
 社長の使っているポンコツローレルが駐まっているのが見えた。近寄ると、どうしたわけか開かずの門が開いていて、そこから音楽が聞こえてくる。
 社長がいるのなら、あいさつだけでもしておいたほうがいいだろうと、瑛一は自転車から降りて、潜り戸を抜けた。ここから入るのが習慣になっていて、つい昔の癖が出たのである。
 樹木は手入れされずに伸びほうだいでうっそうとしていた。日が当たらないからなのか、空気がひんやりとしている。
 庭に小柄な人物がいた。女子学生が着るような白いワンピース姿だが、どこかおかしい。頭には女性用の帽子を被っているが、男性のような浅黒い足をしている。よく見ると肩ががっしりとしていてどうみても男の体型だ。
 横にはラジカセが置いてあり、そこから音楽が流れている。
 曲に聞き覚えがある。この家の二階から聞こえてきた『Wink』のものだ。ラジカセは息子が使っていたものに似ていた。
 瑛一は指先で口を押さえた。社長の車に入っていた娘のものらしきカセットテープ。隣の住人がコスプレして踊っていた姿。亡くなった少女の幻影。社長によく似た後ろ姿。
 いくつもの情報が頭の中を駆け巡る。不吉な予感に足元から冷気が這い上がってくる。
 その人物はテレビで見たことがある歌「淋しい熱帯魚」の振り付けを真似て、踊っている。慣れないせいかどことなく泥臭く、盆踊りに似ていた。
 瑛一は棒立ちになったまま、男の奇妙な踊りを眺めた。
 音楽のフェードアウトと同時に、男の動きが止まった。それから男は手帳のようなものを手に取ると、読み始める。

 桜散る 旅立ちの春 届くかな 想いの歌声 空の彼方へ

 声と短歌からして、やはり男は社長だった。
 社長は仰ぎ見るように、顔を二階に向けた。何かを待つような仕草だ。
 なんだろうと二階のベランダを見ると、ぼんやりとした影が現れた。次第に人の形を取り始めると、ペンキを流し込んだように部分的に色が浮き出してきた。
 そうして若い女性の姿になった。
 高校生のような制服を着ている。校章のついた白いブラウスには泥のような汚れがある。それを見ていると、胸が締め付けられるようで、呼吸が荒くなる。
 女性の白いブラウス、社長令嬢が好きだった音楽、ラジカセで踊る社長、それらのパーツが頭の中でぐるぐると回り始め、カチッと音を立てて所定の位置にはまりこんだ。
 その時、社長の泣き叫ぶような声が聞こえた。
「優子、わたしだ。そっちはどうなんだ。返事をしてくれ……」
 社長が何をしているのか、何をしたのか、その答えが頭の中に流れ込んできた。
 瑛一は口を押さえたまま門から出ると、反対側にある畑に向かった。
 手を離したとたんに、口から昼に食べたものを吐きだした。
 胃が裏返るほど吐いた。中腰になって、深呼吸をすると少し楽になる。
 膝に手をついて体を起こした。目の前にポツンと柿の木が立っている。これから花を咲かせるのか、葉の間に白黄色のつぼみが見える。
 柿の木から腐った熟し柿の臭いが漂ってくる。胸がむかつくようないやな臭いだった。
 この場から離れようと、自転車の方に足を向けたとたんに、門の方から強風が吹いてきた。
 風を避けるために横を向くと、柿の木に二つの物体がぶら下がっているのが見えた。
 幹の左右に黒と白、二つの細長いものが垂れ下がり揺れている。それは布などとは違う、もっとどっしりとした質感がある。
 春の日差しが当たっているのにもかかわらず、物体の輪郭はぼやけている。度の合わない眼鏡をかけたときのようだ。目を見開き、息をこらして見続けると、正体があらわになってきた。
 黒の方は黒色の古めかしい背広を着た男だ。顔をうなだれるようにしているので、表情は見えない。ばさついた黒髪に白髪が交じっている。
 もう一方は白いブラウスに黒のジャンパースカート姿だ。こちらも顔をふせている。短髪の黒髪で、すらりと伸びた肢体からして若い女性だろうか。
 風にあおられ男は左右に、女は前後に揺れている。頭部の先はどちらも葉に隠れてわからない。枝から直接生えているようにも見える。
 吹いてくる風の中に腐食した土の臭いが混じりだした。
 柔らかな陽光の中で揺れる姿は白日夢を見ているように現実感がなく、別世界の出来事のようだ。
 いつか聞いた息子の話が急に頭に浮かび、あることに気がついた。
 あの門がいつも閉まっていたのは、侵入者を防ぐためではなく、何かを閉じ込めておくためだったのではないのか。
 この場から早く逃げようと体の向きを変えようとした、そのとき、瑛一の両肩にずっしりとした湿った土嚢状のものが、くい込んできた。
 重しを振り切るように肩を振り回した。重いナップザックを背負っているような感触がある。すぐに湿っぽい土の匂いが鼻腔に入り込んでくる。咽せたはずみにしゃがみ込んだ。
 急な動きが良かったのか、背中が楽になった。今がチャンスと立ち上がりながら、駆け出した。停めてある自転車に向かう。
 鍵を掛けていなかったことを幸いに、そのまま自転車に乗って走り出す。後ろを見る余裕はない。通りに出てから、右に曲がりスピードを落として、振り返った。誰もいない、少し離れたところを大学生ふうな男が歩いているだけだった。
 首を後ろに回して、背中に何か付いていないか確認したが、着ているシャツに付着物はなかった。
 気持ちを落ち着かせてから、Uターンして元事務所のある道を覗き見た。柿の木が立っているあたりに、もやもやとした蚊柱のようなものがあって、ゆっくりと門のほうに移動していくのが見える。
 蚊柱のようなものが、さきほどのものと関係あるのかどうかはわからないが、なにかの抜け殻なのかもしれない。いずれにしても、二度と関わるつもりはない。
 自転車を走らせ、藤成通を北に曲がり、覚王山の交差点に向かった。軽い運動をしていると、頭が回るようになるのか、さきほどの怪現象の正体について、思いついた。
 社長がやっていたこと、それは自分の娘をあの世から呼び出すこと。それは、事務所の隣の男がやっていたパフォーマンスにヒントを得たのだろう。そして、昔の事務所に封印していたあの男、たぶん再婚した妻の元夫も一緒に呼び出してしまったのだ。
 つまり、社長の娘は花嫁修行に出ているのではなく、死んでいる、そしてどこかに埋められているはずだ。いまでも腐った土の匂いが身体にまとわりついているような気がする。

 それから三日後、瑛一は会社を辞めると社長に伝えた。あの日、女装した社長の姿が目に焼き付いて、仕事どころではなかったからだ。
 予想に反して、社長はあっさりと認めてくれた。すべてがどうでもいいといわんばかりのなげやりな口調だった。さらに、視線はあらぬほうに向けられていた。社長の目には何か違う風景が映っているように思えた。
 仕事の引き継ぎを一週間で終え、あとは有給を消化することで会社を後にした。今となると、あの日の出来事は夢の中で起きたような非現実なものに思えてくる。

 十年ほど経ったときのことだ。昔から付き合いのあるコピーセンターの経営者と世間話をしていたら、黒河内社長の噂話が出た。
「この間、同業者から電話があって、社長の連絡先を知らないかと聞かれたんだ。なんでも入金が遅れていて、連絡が取れないので事務所に行ったら、もぬけの殻だったというわけ。うちも数万円だけど、未払金があって、長い付き合いだったから、もう諦めたけどさ」
「テレビ局近くの自宅はどうなんです」
 瑛一の疑問に、彼は「そっちもダメだったらしいね。急にどこかに引っ越していたらしいと近所の人に言われたとさ。あのあたりは高級住宅街なんだけど、借家だったらしくて、どうしようもないんだと」
 呆れ顔で言う経営者に、瑛一は「世間体を気にする余裕もなくなったんで、一家で夜逃げしたんでしょうね」と答えた。
 社長はUFOに迎えられて、別世界に夜逃げしていったのか、と思いついたが、それを言ったら、頭のおかしい人と思われてしまう。
 家に帰ってから、ふと思いついて、昔事務所だった民家をグーグルマップで検索してみた。あの家は瑛一が働いていたときと変わらない姿で存在していた。柿の木があった荒地はアスファルトで舗装され、駐車場になっていたが、車は停まっていない。
 画面をストリートビューに切り替えてみた。長屋門の扉は閉まっていたが、横にある潜り戸はかすかに開いているような気がするのだった。

             完

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