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夕霧出産と芥子の匂い なるべく挿絵付き 『葵』⑨111


・ 出産

几帳の内の声が少し静まったので、一時的にでも苦しみが治まったのかと、母宮が薬湯を持たせました。

隙おはするにやとて 宮の御湯 持て寄せたまへるに

女房がそれを飲ませようと葵上を抱き起すと、それまでの苦しみがそのまま陣痛になったように、間もなく子が生まれました

かき起こされたまひて ほどなく生まれたまひぬ


この上なく嬉しいことでありました。

既に憑坐(よりまし)に移した物の怪どもが悔しがって大騒ぎしています。

人に駆り移したまへる御もののけども ねたがりまどふけはひ いともの騒がしうて
後の事 またいと心もとなし

まだ後産も済まないうちには大層心配したのですが、数えきれないほどの願を立てさせたおかげなのか、やがて御産の過程の全てが無事に終わりました。
天台座主をはじめ幾多の高僧達が、得意気に汗を拭いながら帰って行かれます。
心配し続けていた皆も、張り詰めていた気持ちが少し緩んでほっと一息つきました。

多くの人の 心を尽くしつる日ごろの名残 すこしうちやすみて 今はさりとも と思す

御修法などはまた始めさせていますが、
今はまず生まれたばかりの愛らしい赤子の御世話に皆夢中で、左大臣邸は幸福に包まれています。

まづは興あり めづらしき御かしづきに 皆人ゆるべり

桐壺院はじめ、親王方、上達部残らずの皆様が、産養の御祝に、滅多にないような立派な品々をお送りになるので、女房達は毎夜毎夜大騒ぎして見ています。

院をはじめたてまつりて 親王たち 上達部 残るなき産養どもの
めづらかにいかめしきを 夜ごとに見ののしる

…………………
(※産養 小児誕生の夜を初夜といい,その日から3,5,7,9日目に当たる各夜ごとに親戚・知人から衣服・調度・食物などが贈られ,一同参集して祝宴を張り,和歌・管絃の御遊に及ぶ ≪コトバンクより≫)
…………………

生まれたのが男子なので、御祝はますますにぎにぎしく華やかです。

男にてさへおはすれば そのほどの作法 にぎははしくめでたし


・ 六条御息所

六条御息所は、左大臣邸のこんな華やかなめでたい様子を聞くのも不快でたまりません。
「ずっと、危ない状態と聞いていたのに、御産が無事に済んだとは」と歯噛みする思いに陥ってしまいます。

『愛の影』  フレデリック・サンズ

意識が朦朧として自分が自分でないようになってしまった時のことを考えるのですが、
争いようもなく不思議なことに、着ている物に護摩焚きの芥子の匂いが沁みていて、髪を洗わせ、着物を替えるなど試してみても、芥子の匂いは取れません。

御衣なども ただ芥子の香に 染み返りたるあやしさに
御ゆする参り 御衣着替へなどしたまひて 試みたまへど なほ同じやうにのみあれば

思い詰めた自分の魂が、我知らず我が身を抜け出て左大臣邸にまで飛んで行き正夫人を苛んでいたとは、自分のことながら気味悪く空恐ろしいばかりです。
そのように人が既に噂していることについては更に、人に言えることでもなく、我が心の中だけで嘆く他なく、
そうしていると、ますます気が変になりそうです。

『嫉妬に燃えるキルケ』 ウォーターハウス


・ 源氏の思い

源氏も、邸の空気が緩むのにつれて、漸く少し気分が落ち着いてきました。
臨月のが弱り臥せって涙を流すのを憐れんでいたら、いつしか面変わりして、
妻を責め苛み、愛欲の凝集したでもあるかのように自分に愛を迫ったあれは、
名乗りはしなかったが、明らかに六条御息所であった、
という悪夢のような記憶が蘇ります。

『レッドドラゴンと太陽の衣をまとった女』  ウィリアム・ブレイク

「御息所の所には間遠になってしまっていて申し訳ないのだが、奇怪な記憶の去らぬままで間近にお逢いするのもいかがなものか」「平常な心でお逢いできないのも御息所にお気の毒だ」
いろいろ考えた末、あちらにも体面があろうと、御息所には文だけを送りました。

・ 葵上

難産だった葵上の回復ははかばかしくなく、左大臣邸全体の緊張の空気は解けません。

いたうわづらひたまひし人の御名残ゆゆしう

源氏も夜の忍び歩きに出て行くのをやめています。
葵上の病状が芳しくないので、まだいつものように夫婦として逢うことはありませんが、
生まれたばかりの若君は宝珠のように美しく、源氏の愛おしみようは尋常ではありません。

若君のいとゆゆしきまで見えたまふ御ありさまを
今から いとさまことに もてかしづききこえたまふさま おろかならず


・ 左大臣

源氏が我が孫を愛おしむのを、こんな日を夢見ていたのだと、左大臣は大層嬉しく幸せにも思います。

葵上の回復が遅れているのを心配する一方で、
「あれだけ重く病んだのだからこれ位長引くのはまあ仕方あるまい」などと思っています。

さばかりいみじかりし名残にこそは と思して いかでかは さのみは 心をも 惑はしたまはむ



📌 声しづめて法華経を誦みたる いみじう尊し

静かに法華経を誦むのが大変に尊いとありましたが。
台密(天台宗←最澄)と東密(真言宗←空海)と共に法華経を尊重しているが、東密では最高のお経ではないことになっているようです。

左大臣邸に参集しているお坊さんの宗派は、わかりませんが、
紫式部日記の中宮彰子の御産前の九月十一日には、
法相宗興福寺定澄僧都、天台宗三井寺の内供の君、真言宗仁和寺の僧都の君、修験者、陰陽師、憑坐など、ありとあらゆる宗教者が参集しているような記述があります。
宗教のことがまるでわからないのですが、とても日本人的なことなのでしょうか。何か凄いです。

左大臣邸も同じようなことだったのでしょう。

📌 芥子の匂い

空海の企て: 密教儀礼と国のかたち 山折哲雄

大碩学山折哲雄先生のおっしゃることで大変に難しいのですが。
六条御息所が、意識が飛んだ時のことを思い辿ってみると、
着物にも髪にも芥子の香が染み付いていて、いくら洗っても取れないので、確かに自分を抜け出した生霊が正夫人を襲ったのだと確信して、
自分の業の深さに絶望する、という場面のことです。

源氏物語の出産場面は、紫式部日記の中宮彰子の出産場面と切り離せないものだと思うのですが、
中宮彰子の出産場面には記述されていない芥子が、葵上の出産場面には呪われた証拠のように登場するのは、
別に中宮彰子の時に芥子が投入されていないということではなく、
中宮彰子の安らかな御産には、芥子の煙で説明されるような狂的な場面はなかった、
というだけのことなのでしょうか。

自らの意志でしたことでもなく、望んだのは権力でもないのですが、
洗っても落ちない呪いというだけで、マクベス夫人のいくら洗っても落ちない血をちょっと連想してしまいます。

『マクベス夫人』  チャールズ・ルイス・ミュラー

(我が方が600年ばかり先んじているのですが😉)

📌 『妹の魂結び』 折口信夫 万葉集研究 @青空文庫 より

家々の成女戒を経た女たちは、巫女である。 其故、呪術を行ふ力を持つてゐた。
愛人や、夫の遠行には、家族の守護霊でもあり、自身の内在魂でもあるものを分割して与へる。 男の衣装の中に、秘密の結び方のたまの緒で結び籠めて置く。 さうして、旅中の守りとした。
後には、女の身にも男の魂を結びとめて置く様になつたのだ。 此緒は、解くと相手の身に変事が起るのである。 だから互に、物忌みを守つて居ねばならぬ。

📌 愛ってな~に?

源氏も左大臣も、愛して心配しているとは書かれていますが、半狂乱で心配する的な所はなくて、なんかクールだなあと思います。
生老病死が身近だった時代のスタンダードな在り方なのかもしれないのですが。

眞斗通つぐ美

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