「いっすーくるま」です。独立へのスタート編①

昭和55年4月1日、私は、武蔵小杉にある結婚式場へ向かっていました。この日が、入社式だったのです。100人以上の新入社員が居たと思います。それには、理由がありました。それは、明年に、結婚式場からホテルへと発展するためでした。川崎と厚木、八王子の支店が、ホテルへと規模を拡大するのです。そのための従業員の拡充でした。入社式が終わると入社手続を行い、午後からは、新入社員研修の開始でした。
会社の沿革、社会人として心構え、サービス業の基本など初めて学ぶ知識ばかりで、研修前半は、本店の川崎で、後半は、厚木・八王子支店で行われました。研修の最後に新入社員の1人1人が、今後の抱負を発表してのですが、その時、私は、こんな思いを発表したのです。「何でもやります」でした。それは、仕事は、これが苦手だ。自分の目指すものではない。このために入社したのではないと言って選んでいたら、成長など出来ないと思ったからです。何でも挑戦して成長しようとの決意でした。研修が終わると、私は、本店の川崎では無く、厚木支店へ出勤したのでした。それには、理由があったのです。入社前に会社から、1年間、和食で働いて、その後にホテルの洋食で働いて貰いたいとの打診があったのです。しかし、私は、調理師専門学校で1年の遅れがありました。やっと、独立への(レストラン経営)スタートを切るに当たって、もう1年遅れるのは、辛いものがあったのです。頂いた電話でお断りした結果が、厚木支店、洋食部への辞令でした。1時間半の通勤時間で、帰宅が遅くなるという危惧がありましたが、「何でもやります」との抱負のまま頑張ろうと決めました。初めて厚木店の洋食調理場に出勤した時、そこには、チーフを含め5人のコックの先輩が居りました。朝9時前に出勤して調理場の用意をします。そして、私に、与えられたセクションは、サラダ場と呼ばれる新米の小僧が、最初に受け持つ場所だったのです。朝最初の仕込みは、レストランのランチに付けられるサイドサラダを、60皿ほど造って冷蔵庫へ保管して置くことでした。サラダ場の先輩が居りましたが、この方は、横浜のホテルで修行した方で、ホット物の料理も出来ましたが、敢えて冷菜料理を担当していました。この先輩は、アイスカービング(氷彫刻)も出来て、夏の宴会、パーティーなどには、素晴らしい氷彫刻を飾ってました。料理の作り方を手取り足取り、丁寧に教えてくれる訳がありません。だいたいの要領を教えてくれますが、あとは、目で見て、造り方、味付けの仕方、盛り付けの仕方を盗むしかないのです。午前11時にレストランがオープンすると、ランチを食しに来たお客様で賑わい、オーダーが次々と入って来ます。そのオーダーの声に従って、コック達が動き始めるのです。忙しい時です。午後1時を過ぎると、オーダーが少なくなって来ます。その時から、明日の結婚式や宴会、バイキングなどの仕込みをするのです。仕込む数が、少ない時は、1人ずつ順番に休憩を取ったりしました。途中、少しずつレストランのオーダーが入りますが、少人数のコックで対応出来ます。夕方、18時を過ぎると、レストランよりディナーのオーダーが、入り始めるのです。また、調理場では、コック達がバタバタ動き回って、料理を造り始めるのでした。夜9時30分のオーダーストップと共に調理場では、片付けが始まりますが、次の日の宴会の料理の仕込みが出来ていない場合には、オーダーストップから仕込みを始めた事もありました。そんな時は、終電に乗れませんから、近くのサウナへ宿泊でした。普段は、オーダーストップ、片付け、掃除が終わると、賄い飯(ステーキ)を済ませてタイムカードを押して、帰路に着くのは午後10時30分でした。それから、自宅に着くのは、深夜12時ちかくだったのです。就寝したと思ったら、もう、朝でした。7時30分に出発して、また、9時前に調理場の準備とサイドサラダ60皿を、製作して冷蔵庫へ保管して居りました。こんな、コックとしての1日の仕事を書かせて頂きましたが、今でこそ、社会が働き方改革として8時間労働を推進してますが、この時代、13時間半働くのが普通でした。現代では、働き過ぎだーと怒鳴られるかも知れません。ところが、私は、30代でレストランを経営して独立したかったのです。そのために覚える材料の仕入れ、仕込み、盛り付けは、全部メモに残しました。新たなメモが記入されると、1歩目的に近づいた充実感を味わえたのです。働きながら、やっとやっと独立へのスタートが切れたと喜んでいる私が、居りました。この辺で失礼します。
 

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