若者のありがとうと毒親の死後.

とりわけ若者のありがとうは不足とその不足を見せつけられるを寸止めしてくれた者に対して言われることが多い。しかし本当の大人(人間)としてのありがとうは、むしろその不足を通して自身の内なる声に還ることを促進してくれた者に払われる言葉だ.賢人は痛みを愛すのだ.

我は今、物質的には餓死することのない豊穣の時代に生きている。しかし物質が豊穣になったのと対比して精神が極めて菲薄化し、人々はどう生きるに執着した。もはや私の父は私が世間的に成功すれば自分の我慢が報われたのだ、と思い、私の母は私のことなど考えてもいなかったのに「ありがたいありがたい」と言う。こんな私は恩知らずだと、それが私が自身のことを悪魔と言う理由である。精神が菲薄化した現代では、最早人々は勢いついており、もう誰も恥を感じなくなったし、省察は殺された。善の恥と悪の恥がある。善の恥とはそれは精神の深化を手助けする恥である。そこには素直な心がある。悪の恥、それは自身を"永遠の狭間"に位置させる恥である。永遠の狭間に陥った人間は、死後を迎えることができない。そしてその死後の迎えられなさ、初めて思い出す絶望、その度合いが毒親の毒である。毒親の本質は死なないと思っていることである。それは言い換えれば死ねない、のだ。

そして私は感じるのだ、両親が課した名誉と才能、不足-逆境を自ら順境にした力強い栄光を。名誉と才能、私はいつもふざけて笑っている。しかしそれでいて苦悶を知っている。名誉と才能、そして苦悶。私たちはそれを併せ持つ。それが私の生まれた意味だ。

これらの因は、私が真面目に生きたこと、ただ一つである。

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