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[創作]尊き普通の世界

その男子は、先生との話も深まったことにより、多少の冗談を言ってもいい雰囲気を察知した。

もとより普く議論において最も崇高とされる行為は談笑であり、お互いが心を開け放す"冗談"を言える空気こそが議論としてふさわしい、と男子は知っていたからだ。

「先生、そんなことを言っていますが、実際のところ他者に分別をと言っているその"分別''すらも、結局のとこ生きるための執着ではないのですか?」

男子は若干冗談めかした空気に乗せて、私たちに叶うはずがない煩悩の消え去った世界を、それはもう無理なものとして諦めた上で、それを冗談に変化させて言った。

そうするとその途端、それまで朗らかな顔を見せていた先生は表情を変え、数秒の間黙り込んでしまった。

「・・・」

「・・・、◯・・・。」

男子はその時の先生の顔を一瞬も見逃さなかった。

先生は何かを言いたげな表情をしていたが、その数刻後に苦虫を潰すような苦悶の表情を浮かべ(それはほんの数秒のことだが)、それからその苦悶を消し、毅然とした表情で口を開いた。

「たしかに、私が今言ったことは煩悩ありきでの話だし、君の指摘はごもっともだ。私は煩悩を消す方法は叶わないと諦めてから、体調がそれまでの私と見違えるように良くなって、そして私は煩悩は消すのではなく、受け入れるという方法を取ることのほうが人間として大切なんだと認識した。」

「しかしながら煩悩というものの醜さも、日頃私は見せつけられている。自身の醜さと、その醜さを気づいている私、という自慢の醜さをも、日頃に知らされる。そうなるとたまに思う。ああやっぱり、煩悩は消すべきだったのではないか?、と。煩悩を消せないで、消去法的に私は生の息吹を取り返したが、もし仮に煩悩を消している人が、いや、消しているお方がいるのであれば、私なんかはただのゴミ山に等しいのではないかと。」

男子は思ってもいない先生の回答に、息を飲み込んでそれを聞いた。

「だが私に煩悩を消すことはできない。煩悩を消そうとしてしまえば、たちまちのうちにそれが自詰め、つまるところ鬱病へと形を変え、治るかわからぬ後遺症を残してしまう。私は断じて煩悩を消す方法は叶わないのであり、煩悩を受け入れる方法を取ろうと決めたんだ。」

そうして先生は数秒苦悶の表情を浮かべ、それから額とこめかみのあたりを人差し指で「どうしたものか」と撫でる仕草を見せた後、口を開いた。

「もしそれができたのならば、私は君の生徒になる。私には不可能だったが、もしそれができる人がいるのならば私は喜んでその弟子となる。だからもしそういうことが起きれば、あるいはそういう人を見かけたならば、私に教えてほしい。よろしく頼む。」

男子は先生のまさかの応答に戸惑い、しかしながらこちらも襟を正して話す。

「すみません、そこまで先生が考えているとは、思いもしませんでした。冗談で言ったつもりですし、そもそも私自体、それは無理なものだと観念して、だからこそ冗談として転化させて話したのです。」

「しかしながら今先生からお話を聞いて、私は尚一層、先生から学びたいと思いました。なぜかはよく分かりませんが、私は悟りかあるいはそれと同等の心の世界に出るまでは、先生のもとで学びたい。」

それを聞いた先生は、今度は若干笑ったが、今度は恥ずかしそうな顔を浮かべ、数秒また言葉を詰まらせた後こう言った。

「それはありがたいことで、教師冥利に尽きることだと思う。私たちに果たしてそのような大事業を成せるかは分からないが、うん、共に精進していこう。」

男子はこの先生の顔も見逃さなかった。


そして男子は強く、こう思った。

先生は、冗談めかしていつも気さくに話しかけてくれるし、たくさんの物事を知っていて、それでいてひけらかすところも一切ない。だからそんな先生を私は少し楽にしてあげたかった。楽にしてあげたかったから、私たちにはできないことを知らせようとした。だから悟りを開けぬ私たちを、わざと冗談めかして嘘をついた。

しかしながらこの先生は、今も求道しているのだ。この先生は変わらぬずっと昔から、今も尚真剣に事に臨んでいる。だから先生はあんなにも苦悶の表情を浮かべ、あんなにも気恥ずかしい笑顔を見せたのだ。

私は見当違いをしていた。この人は、今も尚道を一人走り続けているのだ。手を休める、足を休める、そんな事はもうとうに超えているのだ。

この人は本気なんだ。
だから欠点を指摘された時、苦しそうな顔をするんだ。

言い訳もせず、取り繕いもせず、苦しむのだ。

こんな人はなかなかいない。いたとしても、昔はそうだったが、度重なる濁世によって、自身をもその乱れ、の中に安養してしまう人が多い。

だけどこの先生はまだずっと道を走り続けている。一筋に、強く、まだ先を見て瞬いている。

私はこのような先生を求めていた。かねてからずっと。

男子は一瞬の間そのような思案をした後、先生に向かって口を開いた。

「僕は、これからも先生のもとで学びたく思います。先生はずっと、濁世(じょくせ)の中でも変わらず道を歩んでおられる。皆が足を止めても、ただ一人、変わらず、ずっと。」

それを聞いて、照れくさそうに先生は答えた。

「それは私が嫉妬深いからですな(笑)。」

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