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天才は子どもである。

子供って聞くと天真爛漫で純粋で、本能や欲求のゆくままに行動する生き物だと思う。
そこから社会という枠組みによって「余計な部分」を削ぎ落とされ個性の無い人間になっていく。

天才とはこの削ぎ落とされるプロセスに対抗した存在だと自分は思う。
今あなたが思っている天才像はみな子供心を尊重している。

まぁただ子供になるというわけではない。実際は子供心の持つ精神状態を維持しながら
知能だけは大人になる。ということになる。
例を上げると、子供の頃夢中になっていた鬼ごっこ。その娯楽レベルの段階が上がり、
数学、物理、美術などの学問が「鬼ごっこ」の存在になる。


あっという間に日が暮れたのを覚えているだろうか?その超集中状態がそのまま学問にシフトされたと考えよう。
しかし、「鬼ごっこ」は比較的運動ができる人ではないと最大限の喜びは手に入らないであろう。人それぞれ得意不得意があるように、
好きな物は大体、「人よりちょっと出来るのがうまい」という感覚から入るのでは無いだろうか。ちょっとできるのが上手いからこそ、人よりものめり込むスピードが出るので無いだろうか。

それと同様に、調子に乗って哲学の本をあまり読まないのによくプラトンなど
を読んだぜ!俺かっこいい!と見せびらかす人がいるが、それはナンセンスである。

本当の学習とは、その「鬼ごっこ」と同じようにまずルールを知り、そのルールから
応用へと発達しその後自らの手でルールを自分たちだけの楽しめるルールへと変えていくそのプロセスを踏むことで成り立つ物である。

なのでプラトンや、なんだか難しい専門書を読むことはルールをすっぽかして応用しようとしていることと同じである。そりゃあ難しいだろう。

少し話がずれたが、子供の精神を詳しく知ることこそまさに天才の存在を知る唯一の
方法なのでは無いかと思う。ここで思う子供の精神を自分なりに考えてみる。

天才に通じる

子供の精神とは以下の要素(他にも存在すると思うが)で構成されていると考える。

1:純粋性

純粋性は濁りが全くない清らかな水をイメージしてもらうと分かりやすいだろう。

純粋性を持つことによって先入観を抱かず素直に本質をつく疑問を行う行為が誕生する。
時によっては失礼になるかも知れないが当の本人は全く悪気が無いのである。
それでよく反感を買ってしまうのは少なくない気がする。

そして純粋性の高い子供は皆、知的好奇心が高い。
子供達を見ているとキラキラしている目で「これはどうして?」という疑問心は日常茶飯事のように湧き上がっていく姿を見たことはあるだろう。皆天才になる要素は存在するのである。

しかし、ここで厄介なのが思春期というものだ。ここでヒトは身体的・精神的に発育する事で清らかな水が少しずつ濁っていく。詰め込み教育、先輩後輩による立場の存在など、自分の場合は先生の怖さによって濁った気がする。

小学校の頃にもそのような先生は存在したが、違いは愛の有無だと信じている。ストレスの捌け口のようにミスした事に対して罵倒を浴び、恐れ始める。それに自分は性教育というものに対して社会は軽視しているような気がする。性に対して恥ずかしる事で純粋性が消え去っていく。

ここで問題を大きく捉えると自分の思う水が濁る唯一の理由は
「他人の目からの呪縛」だと思う。
さっき説明した理由の中で共通している要素の中に全て「他人の目」が関連している。

他人の目からの解放から子供の純粋性を取り戻そう。
純粋性を取り戻すことで自分のしたいものだけに集中する事が可能となる。
ここで注意したいのがわざわざ自分の好きでは無いことに手を伸ばすのはやめよう。

当たり前だろという言葉が出てきそうだが、果たしてそうか。
ここでまた「他人の目」を気にして背伸びして出来そうもない見た目だけはいい科目を選ぶのは控えよう。続かないのだから。
それよりも他人からではなく、自分の内面に存在している好きな事をやろう。

それがどんなに小さな事でも「鬼ごっこ」のような感覚が生まれるのであれば続けるべきだ。そう、あっという間に時間が経つ感覚を。

雑草の研究や埃のタイプなど、どんな変な事でも興味を持ったらそれを追求し、飽きたら次のことを探す。を繰り返す事が人生に於いて生産的に過ごす重要な要素だと思う。

次に説明したい要素は「肩書を無視する力」である。

『肩書を無視する力』

幼稚園や小学校の頃の自分を思い出してみると、周りはワクワクでいっぱいだった。
色んなことに手を出し、色んなことに興味を持ち、「次!次!」と常に楽しい事をやりたいと思った事は無いだろうか。子供達は何か達成した後に自慢げになり、そこでやめてしまうなんて今の私達のような事は無かったのではないか。

そう、子供達はなににも縛られず自由にやりたい事をやっていたのである。今の社会においてこの肩書や、実績、地位などに自分自身を阻めていないだろうか。

それよりも子供のようにいろんな事にワクワクする心を忘れず、子供のようにいる事でもう一度子供の頃のあの「鬼ごっこ」のような感覚を手にする事が可能になるのかもしれない。

自分の例を出して思うと、小学校の頃の遠足のみんなで食べるご飯でお菓子交換をしたり、
学校終わりにこども携帯を使って擬似逃走中をしてみたり、自分で考え、自分でルールを作る
まるでアーティストのように創っていたのである。

アインシュタインも、ライト兄弟やエジソンも
みなアーティストなのである。試行錯誤の上に新しい画期的なものを発見し、世界の革新に大いに貢献している、という点において。
そしてそれは子供の創造心を維持するという事により実現しているのでは無いか。


最後に伝えたい子供の要素は「メタ認知」である。

『メタ認知』

辞書を引いてみると、メタ認知とは自分の認知活動を客観的にとらえる、つまり、自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を認知すること。記述している。

メタ認知することによって子供のマインドフルネスに近づく事が可能となる。
子供のマインドフル力は強大である。子供は他人の目からの呪縛から解放されている。と言う事は事実として知られている事であろう。

そしてこの状態に近づくためには、メタ認知、一つ目に純粋性にも通ずるが
無意識的な認知の歪みを取り消す事が可能となり、それは
「他人からの解放」が可能になる。

他人からの解放によって自分の内側に意識を向けることが可能となる。

自分の内側に常に意識を向ける事は重要な事である。なぜなら内側に意識を集中する事でしか、革命的な発見は行われないからである。


今回はまとめとして、
純粋性
肩書を無視する力
メタ認知
の三つを上げたが、全体として言いたいのは

子供のような純粋性を持ち、他人の目からメタ認知を通して解放されることで
天才という存在に一歩近づける事ができるのでは無いだろうか。

最後にビギナーズマインドを少し説明したい。

これに対して辞書を引いてみると、ビギナーズ・マインドとは、すべての可能性に対して、それを受け入れ、開かれている、準備のある心。と書かれている。

このマインドを維持するのはなかなか難しい。初心の姿勢とは子供の得意分野である姿勢だが、大人になっていくにつれ、そして知識を蓄えられ専門性が発展する事で
初心の姿勢は無くなっていく、、

この初心の姿勢を無くさ無いためには常に子供でいることを忘れないようにしよう。
そして他人との比較をやめ、もっと純粋な動機を持つことがビギナーズマインドを維持する方法なのではないか。

子供の自分を忘れるな!!!!!

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