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義母、享年99歳の大往生  

令和5年、
年初から施設に居た
義母の体調は、
やや体力的に低下との連絡を
受けていた。

1月22日(日)
昼前に
医師からの死亡連絡
第一報が入った。、


今年1月半ばからは、
禍コロナの中
面会フリーとなり、
ほぼ隔日の訪室面会が、
許可されていた。

医師の見立てにより、
会える人には
面会フリーの許可が出た。
義母の最期が
近いとの判断からだ。

この施設のお世話になって、
既に
一年が経過していた。
コロナ禍での、一年間。

彼女の暮らす部屋には、
一度も
足を踏み入れたことが
なかった。

医師の見立てによる
最期の近くなった義母。
その日から、
家族は、
そこで暮らす
義母の知り合いの
間を抜けて、
彼女の部屋へと
お邪魔させてもらう事が、
日常的にになった。

うっすら開眼、 
やや肩呼吸
チューブで鼻から酸素をもらい
一日一本の割合で、
栄養水分の点滴をうける。

医療行為は、
それだけだった。

凡そ、
10日間の義母のターミナルケアでの
医療行為は、
それだけで、
充分だった。

夫と、わたし。
夫と、弟。
夫と息子と、わたし。

1月21日 (土)の午後
息子とわたし達夫婦の面会では、
何故か
いつになく反応がよく、
まるで
息子、
彼女にとっては孫に
何かを委ねたかったのでは?
というような
反応のよさ、
開眼のシッカリ感が
誰の目にも
ハッキリと見てとれた。

まさか、
その次の日
生命の灯火が
消える事になるとは!

最後の命の輝きを
最後の力を込めて
わたし達に
見せてくれたのだろうか

翌1/22(日)、、、。
10:45 医師からの一報
義母死亡。
1/22 昼、死亡確認のため、施設へ

斎場紹介を受け、
葬儀までの日程確認。

田舎家に立寄り
ご近所、親族への訃報連絡
その間、
わたしは、
義母の好きだった
水仙と蝋梅を抱え集めたくなった。

役所への死亡届け、
檀家寺への報告など
その後
斎場との詳細打ち合わせ。
斎場へ義母を移動させた後
近くで外食を済ませ帰宅。

夜、
21:00,になろうとしていた。

翌日は、友引の為、
二晩の通夜
葬儀は、
1/25の午後のなった。

葬儀は、
家族葬とする事に決めていた。

寂しさを
心で共に語り合える
家族だけの家族葬。

訃報を知り、通夜、葬儀に
出かけようとの優しさに、
『家族だけで送ります』と伝え、
お断りをする。

それでも
生花が届いた。
凖家族の優しさに感謝。

1/24 は、
10年に一度と云われるほどの
大寒波の襲来が間近との
天気予報、
何とか穏やかな通夜を終え

1/25。
葬儀の朝は、
天候の荒れる事を
予感させる雪雲の流れ

僧侶の読経が、終わり
出棺の時間には
空全体が、深い雲に覆われた

葬苑に向かう三台が
高速道路を低速走行を続けても
特に
支障のない車の流れだった。

間も無く、
葬苑に到着すると
いよいよ、
お別れの時が近づく
僧侶の最後の読経が、
部屋に響いた後
義母の冷たいベッドが
扉の中に
収まり、扉が閉ざされた。

待ち時間は、
約一時間。

空の暗い雪雲から
チラチラと白いモノが
風に飛ばされながら
待合室の周りに
唯一の動きあるものを
わたし達に
見せてくれていた。

館内放送が流れ
収骨の部屋へ通された

義母のベッドは、
未だ、熱を帯びているのに
彼女の身体を
カタチ創っていた骨格
骨は、
何と逞しく、
丈夫そうな大きな
強そうなシッカリとした姿だった

彼女の人生が、
地に根差した生涯を
真っ直ぐに生きてきた証

本当に
しっかりと二本の足で立ち
わたしに土との付き合い方を
教えてくれた頃の義母


強い覚悟を持って日々を
生きてきたひとりの女性。
三十五年にも渡った
未亡人生活。
誰にも甘えたり頼ろうとせず
日々、
土との対話を
生き甲斐にして生きたヒト。
自信にも似た笑顔を
思い出させてくれた


遺影に写る
可愛らしい目元の優しさが、
大変だったというよりも
寧ろ
頼もしいいい女に
みえる

本当に、
良く頑張った人生に
乾杯🍻
感謝
そして、
見事な人生を送った女性だった
義母に
思い切り合掌したい。


#人生
#生き様
#覚悟
#見事な人生



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