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【連載小説】青春の逡巡 ①

  ① 喧嘩の巻き添えにあった建夫

 三上建夫は温厚篤実おんこうとくじつな人間だ。独身である。  
 青森県の出身である。  
 直ぐ上の姉が所帯を持って神奈川県横浜市に住んでいる。  
 田舎には年老いたお袋が、一人で生活している。  

 この年は年始から働き詰めであった。  
 勤めている会社は、すでに二十年以上になる。  
 都内建物の空調設備のメンテナンスを主に行っている会社だ。
 高田馬場駅から十分ほどの古いビルの二階にある。  
 建夫の住んでいるアパートがある目黒からJR山手線で一本。通勤はさして辛くは無い。  
 建夫は会社の中では古株になってしまったが、空調設備の世界は奥が深い。いつまでたっても勉強しなければ、遅れをとってしまう。
   
 ある日、観たいと思っていた映画が封切りになり、建夫は一人で池袋に出かけた。  
 盆休みを外し、早めに休みを取った。夏休みも明日迄で、明後日からまた仕事が待っている。
 平日の昼間にもかかわらず池袋駅は大勢の人で混雑していた。  
 東口を出てサンシャインビルに向かって歩いた。  
 歩行者天国を五分ほどいくと、右手のビルに映画館がある。一階でチケットを買い求め、エレベーターで七階まで上がった。
 待合せソファに座り、次の開演まで十五分ほど待った。外の喧騒が嘘のように静かである。冷房が効いている。  

 昨晩は推理小説を読んでいて眠りに着いたのが遅かった。朝の三時ごろだった。午前八時頃に起きた。この状態では映画を観ずに寝入ってしまうかもしれないと不安にかられた。  

 ウトウトしている間に十五分たってしまった。前の客がはけ、次の入場者が入りだしたので、建夫も重い腰をあげた。  
 後方の座席に座った。観客席は空きが多く、建夫の周りには観客がまばらに座っているだけだ。やがて、押しつぶしたようなベルが鳴り、場内が暗くなった。眠るには丁度いい按配である。しかし、映画も観たい。  
 最初はどうにか目を開けていたが、危惧していたように、いつの間にか映画を観ずに寝入ってしまった。    

 場内の明るさで意識を取り戻した建夫は映画館を出た。
 外は夕方の気配を漂わしていた。    
 酒は強いほうではないが、その日に限って、無性に一杯ひっかけたくなった。  
 池袋駅に向かって右手の裏通りにある焼鳥屋に入った。  
 店内は、たばこの煙と焼鳥の煙で、もやっていた。広さは二十坪ほどの広さだ。建夫は入口の近くの二人掛けのテーブルに陣取った。  
 サラリーマンの帰宅時間にはまだ早いが、店内はなぜか混み合っていた。建夫は生ビールと焼き鳥を頼んだ。
 
 ほんのり酔いが回ってきた。
 冷房中ではあったが、客の熱気の所為で暑い。汗が滴る。  

 急に店内が騒がしくなった。客同士が大きな声を出して、言い争っている。無残にも建夫の意識が、そのほうへ強引に引きずり出された。 大きな声を張り上げていたその二人の傍から何人かの客が離れた。  
 言い争いの二人は今にも殴りあうような様子だ。誰も止めに入る気配は無い。
 業を煮やし建夫は大声で、 「喧嘩は外でやってくれ!」と怒鳴った。  当事者の二人は建夫のほうを睨み、 「誰だ、お前は!」と恫喝した。  内心しまったと思ったが既に遅かった。二人は建夫をめがけて近寄ってきた。潮目が変わった。  
 こうなったら逃げるが勝ちと思い、直ぐに外に出て、JR池袋駅へ走った。  
 途中、まだ勘定を済ませていないことを思い出した。
 後日支払えばいいと一目散に走った。逃げ足は速いと、建夫は我ながら感心した。  

 JRの改札を抜け、後ろを見ずにホームの階段を走って登り、発車直前の渋谷方面行きの山手線に乗った。建夫は軽いめまいを感じた。周りの客から不審な目で睨まれた。  
 建夫は一安心した。ところがなかなか電車が発車しない。後続列車の遅れをカバーしていると、車内アナウンスがあった。  
 そうこうしていたら先ほどの焼鳥屋で言い争いをしていた男の片割れが、同じ列車に乗り込んできてしまったのだ。
 建夫の傍に来て、絡んできた。  
 他の客は見ぬふりをしていた。  
 建夫は、次の駅の目白で下車した。その男も降りて来た。ホームで二人が小競り合いをしていたら、若い駅員と年配の駅員が走り寄ってきた。
 建夫を追いかけてきた男が、 「俺はこの男に用がある!お前らは黙ってろ!」というばかり。 建夫は酔いがすっかり醒め、顔は青ざめているのが自分自身でも判る。  
 建夫は駅員にことのあらましを話した。
 建夫を追いかけてきたその男は、酔いがさめてきたのか急に静かになってしまった。男は相当ストレスが溜まっていたようだ。しかし建夫としては迷惑この上ない。映画を観て、良い気分で酒と焼き鳥をやっていたのにこの様である。天界からドスンと修羅界に落された気分になった。逆に建夫のほうが、大いにストレスが溜まってしまった。

 自宅に帰っても一人でプリプリしていた。  
 少し気が収まってくると、建夫は反省した。  
 なぜあの時、つまり居酒屋で二人が絡んできたとき、胸を張って立ち向かおうとしなかったのか。危険を回避したことは、自分でも納得するが、男らしくないと思った。まして、敵に背中を見せて、走って逃げるとは情けない。と自分を恥じた。
 
 次の日、夕方になるのを待って、また池袋に出かけた。昨晩の飲み代を払うためだ。  

 その路地を入ると、既に焼鳥屋は開店していた。暖簾を潜り店の中に入った。店の従業員と思われる男に、「昨日の飲み代の支払いに来たのですが」と言った。  
 厨房の中から店長風の若者が出てきて、
「やあ、昨日はありがとうございました。おかげさまで、店の中が荒らされず助かりました。勘定は、そのお礼として受け取れません。どうぞ、一杯やっていってください」
「いや、そういう訳にはいきません」
「此方も困りますので、そうしてください」
「それでは、甘えちゃいましょうか」
「はい、そうしてください」と、中ジョッキが出てきた。
「ぐっとやってください。ありがとうございました」  
 建夫は恐縮しながら、酒と焼き鳥を頬張ったのである。  

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