見出し画像

短編小説 晩景の花火(1)

 二〇二三年(令和五年)の晩秋、七十一歳になった東郷ひろしは、九州の京町温泉に来ていた。
 葉が落ちだした木々の隙間から、夕暮れの景色が漂っている。
 裕は一人、露天湯に浸かり、いままでの自分の人生を追想していた。
 立ち昇る湯気が、裕の体を包み、そして消えていった。
 ここは宮崎県西部に位置し、近くには霧島山がそびえる閑静な温泉街である。
 JR京町温泉駅から歩いて十分ほどの場所に、裕が宿泊する宿があった。
 
 裕は、その日の朝、羽田から飛行機で宮崎空港に降り立ち、日豊本線、吉都線を乗り継ぎ、三時間弱電車に揺られて、のんびり来たのだった。
 温泉宿の傍には、拳ほどの石が敷き詰められた川があり、この時季紅葉が見事だった。散歩をするには、うってつけの所である。
 野口雨情や種田山頭火の文学碑が立つ、詩情豊かな湯の里と謂われている。
 この宿の、飾らない素の風情や昭和レトロな雰囲気と、従業員の気配りと手際の良さが人気で、客のもてなしもよい宿である。宿の主人は、すでに四代目になる。
 宿のはなしでは、ここを拠点に霧島観光をする旅行客も多いとのこと。
 
 裕がここに来たのは、今回で三度目になる。
 一度目は、四十五年ほど前の一九七八年(昭和五十三年)、仕事の仲間数人で来た。
 二度目は、一九八三年(昭和五十八年)さゆりと一緒に橋田を探しにきた。
 いつかまた来ようと思っていた。そして今回やっと実現したのだった。
 裕が一人でここに来た理由はほかにもあった。それは過去の事件に絡んだある人物の情報を知りたいという事と同時に、自分の記憶を辿る旅でもあった。
 
 裕は湯船からあがり、素っ裸で石床にごろりと身を横たえた。夜風が火照った体にあたり、湯気が立ち昇った。そしてまた湯に浸かった。
 この旅館の男湯の露天風呂には二つの浴槽があり、もう一つの浴槽には、見知らぬ男性客が一人浸かっていた。裕の場所から十メートルほどの距離である。
 何気なく裕は、その客の顔を見た。そのとき、「おや?」と思った。
 どこかで見た顔だと思った。しかし誰だったのか思い出せない。まして、立ち昇る湯気がその男の顔の輪郭をぼかしていた。そして、首筋から背中にかけて入れ墨らしきものが微かに見えた。
 裕の中で、言い知れぬ苦い感覚が残った。その気持ちがしばらく湯の中で漂った。
 その男が露天風呂をでていったあと、裕は過去を探り思いめぐらした。しかし、その男に辿り着かなかった。
 露天風呂をでて、内湯に入ったが、すでにその男の姿は消えていた。
 裕は過去に、その入れ墨をした男を見ているのは間違いない。どこで会っていたのか? 
 風呂からあがり、裕は受付にいた宿の女将に尋ねた。
「先ほど男湯にいた男性客ですが、入れ墨をしていましたが」と、入れ墨の人は入浴禁止なのかを、あえて確認した。
「あぁ、あの人でしたら、この近所の爺さんでしてね。昔はとかく粋がっていましたが、今は善良な好々爺のようですよ。
 私どもも、入れ墨の方はご遠慮させていただいておりますが、あの方だけは、見ぬふりをしているのです。ここは日帰り入浴もしておりますので・・。何かございましたか?」
「いや、昔どこかで・・」と裕が口ごもると、女将は、何か言いたげな態度だったが、口をつぐんでしまった。

 裕は、自分の部屋に戻り、畳の上に寝そべり、昔のことを回想していた。
 彼は細田という名字だったが、夜間高校卒業後、長岡から東京に出て、東郷光子の養子となった。
 暫く横になっていると、睡魔が襲い布団に入った。
 疲れていたのか、すぐに意識が遠のいた。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?