見出し画像

短編小説 「滝つぼ」

時代は、ざわつきながら何処へ流れようとしているのか。

水無山のブナ林から流れ出た清水はもみ合いながら岩場の間を勢いよく流れ、その切れ目から勢いよく空中を飛ぶ。

落ちた場所が小さな滝つぼになっている。

 

水飛沫で周りの木々が滴で濡れている。ブナの薄い葉々を通った淡い太陽の光が下草を和ませる。小鳥のさえずりが滝水の音と調和する。ここは癒しの空間だ。

 滝つぼからあふれ出た水が、さらに下流に流れる。しばらく流れ下ると、川幅が狭まった場所がある。時折、落ち葉の何枚かが力なく岩に引っ掛かりさまよう。

 

 季節は山装う秋、紅葉の見ごろは二週間ほど先だが、この山奥から人々が誰も居なくなってから、早や半世紀が過ぎた。

過去の人々の暮らしの名残が、繁茂する雑草の下で、辛うじて息をひそめている。無常とはこのようなことを謂うのだろうか。令和の時代の田賀川の源流の姿である。

 

本山寛太の家はその渓流の下流域にあった。

その集落を田賀村といった。

 

 寛太が小さい頃、よく父親に連れられてこの滝つぼに来た。

父親は滝つぼに竿を垂らし、いつまでも岩場に座っていた。寛太はそのそばで冷たい水に手足を入れてみたり、ザリガニを採ったりして遊ぶのが常だった。太陽の光が滝つぼに反射して、寛太の顔を撫でる。寛太は目を細め、顔をしかめる。

 その父親はもういない。昭和三十年、寛太が水無分校の小学二年生の時、父親は仕事場での不慮の事故で亡くなった。

 寛太には、妹が一人いる。父親が亡くなってから、母親は生活の為仕事をせざるを得なかった。子供二人を抱え、毎日必死にどんな仕事もするようになった。時季になると、コシアブラやウド、ススタケなどの山菜を採り麓の家々に売り歩くのであった。

 

 亡くなった父親の名前を本山寛治といった。母親の名は京子、妹は利津といった。

 当時、同じ集落には本山という苗字のほかに中山、桑田などの姓を含め十二戸、七十人が生活をしていた。当時は、富山県の奥深い山の中の小さな集落であった。

 

 山奥では、これといった産業もなく、その当時、村の生活は、困窮に満ち、皆が赤貧の生活だった。土地は痩せ作物が育たない。まして冬ともなれば、雪の中でじっとしていなければならず、集落の男たちは、遠くの街に出稼ぎに行った。

 

 ある日、分校の授業で外に出て写生会があった。寛太はクレヨンでスケッチブックに景色を描いていた。ふと手を止め、標高一、五〇〇メートルの水無山を見つめていた。山の中で生活していると、狭い世界しか知る由もない。

寛太は、山の向こうの世界を知りたい。いつかここから飛び立ち、知らない世界を見てみたいと思っていた。

この日も寛太はその様な事を夢想していると、後ろから、前川先生の声がした。いつも元気な男の先生だ。

「寛太、どうした。ちっとも描けてないぞ」

寛太は、我に返った。

「先生、この山の向こうは、どういう世界が広がっているのかな?」

「山が連なっているよ。その遥か遠くには、人がたくさんいる大きな町がある。行きたいか?」と前川先生が寛太に話すのであった。いつの間にか、子供たちが寛太の周りに集まっていた。

「はい、みんな!自分の場所に戻って、写生を続けるぞ」と先生が皆を促した。

 

 水無分校では、富山県の歴史も教える。遥か昔、この田賀村を流れる田賀川の鉄砲水で大被害を出した。ここに入植した人々は、大変な苦労をした。まさに自然との闘いの歴史であった。

 ある女生徒が先生に聞いた。

「先生どうして、わたしたちの先祖は、このような僻地に住むようになったの?」

 前川先生は、

「それはね、君たちの先祖が、新しい場所を求め、自然との『闘い』に挑んだからだよ。何度も鉄砲水にあいながら、その都度立ち上がって今まで来た。並大抵の苦労ではなかった。だが、小さな集落で孤立する家は一軒もなかった。いや、孤立させなかった。鉄砲水で犠牲者もでた。でもね、村人が強い絆で生き延びてきた。その先祖の血を継いでいるみんなだ。これからの人生、色々なことがあるだろう。しかし、決してあきらめてはならないよ。じっと耐えるときもあるだろう。その時にこそ、自分はここ田賀村の出身だと、胸を張って生き抜いてもらいたい。この村もいずれは、誰もいなくなるかもしれない。しかしここで生きたことは、忘れないでほしい」

 前川先生の話をじっと聞いていた寛太は、強い印象としていつまでも脳裏に残った。

 

 昭和三十四年(一九五九年)寛太が小学校六年生の秋、田賀村一帯を鉄砲水が襲った。台風がらみの豪雨で一週間も雨が続いた。前夜、山の奥からゴーという異様な地鳴りがした。

 

 村人は老いも若きも集会所に集まった。この状態では、必ず鉄砲水に襲われると長老が話した。それが現実になった。

 

 寛太は、急ぎ母親と妹の三人で、集会所に身を寄せた。母親の荷物の中には、亡き寛治の位牌が入っていた。

 

 寛太の隣の家の爺さんは集会所に来ていなかった。

「葛西の婆さん、旦那はどうした?」と長老が聞いた。

「俺はこの家に留まると、テコでも動かないものだから、とりあえず私らだけここに」と蚊の鳴くような声で応えた。長老が、

「誰か葛西の家に行って、爺さんを連れてきてくれや」と大声で言った。

 村の若い男二人が葛西宅に向かったが、小一時間程で手ぶらで戻ってきた。葛西の爺さんの姿はなかった。

「二人で説得したが、どうしても此処に居ると言い放って動かなかった」とうなだれた。

 すると、村の長老が顔を強張らせ、

「おまえら、人の命を軽く考えたら駄目だ。もう一回行ってこい!寛太!お前もついていけ。絶対連れてこい」と目を吊り上げて怒鳴った。

 

 寛太を含めた三人が、雨が降り続く夜道を歩き、葛西宅を目指し急いだ。途中、寛太は何度も足を滑らせ転んだ。

 寛太は葛西の爺さんの名前を呼んだ。家の中は真っ暗である。

「じいさん、どこにいるの!」と懐中電灯をかざすと、布団に包まり苦しい咳をしているのを見つけた。

「じいさん、ここにおったら、鉄砲水に流されるよ!おいらと一緒に、高台の集会所に行こまい」

 葛西の爺さんは苦しい息遣いをしながら、消え入るような声で、

「寛太か!許してくれ。俺はこの家にいるっちゃ。皆に迷惑をかけたくない。早く戻ってくれ」二人の男が、爺さんを無理やり持ち上げようとした。葛西の爺さんは、激しく抵抗した。どこにこれだけの力があったかという抵抗をした。寛太は、泣きながら「じいさん!みんな悲しむよ!」と懇願した。しかし頑なに抵抗した。川の水嵩が増してきたと見えて家の周りの物がガサガサと動く音がした。

 三人は必死だった。何としても、葛西の爺さんを連れて戻らなければならない。しかし無駄だった。ぐずぐずしていると、みな鉄砲水にもっていかれる。裏山がギシギシ鳴り出した。男の一人が、「危ないから、これ以上は無理だ。早く戻ろう」と言った。

「やだ!爺さんを置いて行けないっちゃ」と寛太は激しく抵抗した。家の周りの状況は一分一秒を争う状況だった。

 集会場に戻った三人を見た長老は悟った。 避難していた人たちは寛太の泣きはらした顔を見て失望の色を浮かべてうな垂れた。

 

 それから間もなく、激流の音が、窓を打ち付ける雨音を蹴散らすように、沢に鳴り響いた。鉄砲水が発生したのだった。

 

 ほとんどの村人は、高台のこの集会所に避難していた。しかし一人住まいの熊高の爺さんの姿も集会所には見えなかった。皆一睡もせずに成り行きを見守った。

 

 次の日朝早く、村の様子を見回った男三人が、青い顔をして集会所に戻った。その中の年配の男が、集会所にいる人たちに向かって

「驚かないでおくれ!ほぼ全滅だ!残っている家屋は三軒だけだ」

 寛太の母親の京子が、

「茂さん、その三軒は、どこの家だ?」とその男に血走った眼付をして聞いた。

「桑山の家一軒と山中の二軒、合わせて三軒だけじゃ」

 それを聞いた皆のなかからどよめきが起こった。長老は、まだ雨の降り続く外を眺め、

「はやる気持ちは分るが、外に出たらだめだぞ。いつまた鉄砲水が来るか。昔、もういいだろうと外に出た人たちがやられてしまったことがあった。雨がやんでからも危険だ」

 村人たちの中から、すすり泣きが聞こえた。

 次の日雨が止んだ。しかし、誰も集会所から出る者はいなかった。

 

三日後、皆それぞれ我が家が建っていた場所に急いだ。

「かあさん、家が無いよ!」と言って寛太と利津は母親にしがみつき、泣いた。

 結局、葛西の爺さん、それに熊高の爺さんの二人が犠牲になってしまった。

 家を失って生き残った人たちは、その後、暫くその集会所に身を寄せるしか無かった。

 その後家を失った人の中には、親戚などを頼り、麓の町に越していった。

 

 寛太の家は、鉄砲水で流されてから、家のあった場所に、バラックを建て住みだした。あの忌まわしい日から数えて一か月後の事だった。建前は集落の男連中が請け負った。むろん無報酬で建ててくれた。家の中は、広さ八畳一間、家財道具がほとんど無い。薪ストーブ、流し、仏壇にしつらえたミカン箱、それに五右衛門風呂、せんべい布団が三組折りたたんであるだけだった。

 

 一軒また一軒と、田賀村の人たちがいなくなった。寛太は無性に寂しさが込み上げてきた。寒い冬が迫った十一月の暮れ、バラック小屋では、寛太の家族三人が決して暖かくない家の中で、身を寄せ合って暮らしていた。

 

 寛太の小学校卒業が迫ったある日、母親の京子が、

「寛太、中学校に行くか?ここからは通えないから、福地町の北部教場の近くの家に厄介になるか」

「かあさん、おれが厄介になる家は?」

「前川先生の知り合いの家で一部屋空いているから、どうかといってきたっちゃ」

「俺がいなくなったら、男手がなくなる」

「お前は、そんなこと心配しなくてもええ。お前はしょわしない子だから、ひとさまの家での生活は心配だ。しっかり勉強をするのよ」と京子は激励した。

 

 

昭和三十五年春、小学校を卒業した寛太は福地町の八坂宅に厄介になることになった。

 寛太はその時初めて、田賀村を離れた。別世界に飛び込んだ気持ちになった。

 

 寛太は店に並べてある品を目で追った。油の壺がたくさん並べてある。また棚には様々な大きさの布があった。他に酒樽もある。量り売りをしているようだ。

「遠路はるばるようこそおいでなすった」と八坂家の奥様が笑顔で寛太を迎えた。

 寛太は、お辞儀をしながら、

「俺、寛太と言います。田賀村からやってまいりました。これからお世話になります。よろしくお願いします」とはっきりした声で挨拶をした。

 

 寛太が下宿することになったその家は、一階が店舗でその奥が八坂夫婦の住まいとなっていた。家族と言ってもこの家の主人と奥様だけの所帯である。長い左右の廊下の真ん中には、中庭があり築山、小池があり、小千谷から取り寄せた錦鯉が五匹ほど優雅に泳いでいた。

 

 寛太の部屋はその建物の二階の一室で広さが六畳ほど、真新しい畳の匂いがした。布団も新しいものが用意されていた。窓を開けると、下の路地が見渡せる。通りの左右の風情は、江戸時代からの街並みの佇まいが歴史を感じさせた。

 その家は、元々は油売りで財をなした旧家であった。福地町では富豪の部類に入る。

 

 客間に通された寛太は、暫く待つと、この家の主人の八坂三十郎と奥様の艶子が入ってきた。寛太は緊張した。寛太はその場で立ち頭を下げた。

「これからお世話になります」と寛太は挨拶した。

「君が本山寛太君か。凛々しい顔つきをしているな」と三十郎が座るよう促しながら話した。

「こんなむさくるしい家ですが、気兼ねなくお過ごしくださいな」と艶子が言った。

「ところで、本山君は田賀村の出身だね。昨年、鉄砲水で甚大な被害が出たとこだ。大変だったな。寛太君は、福地中学校に入るのだったね。しっかり勉強するのだよ」と八坂三十郎は、寛太を激励するのだった。すると艶子が、

「福地中学校は、ここから歩いて十五分のところです。荷物を部屋に置いたら、一度見てきたらいいね。今日は日曜日だから、明日の朝、私が一緒に行きましょう」と言ってくれた。

 これから寛太は、ここ福地町で過ごすことになる。初めて実家から離れての生活に不安を覚えるのだった。

 

 中学校に通学する日、寛太は緊張していたせいか早くに目が覚めた。既に階下では人の声がしていた。

 商売人の家は朝が早い。寛太は身支度を整え一階に降りた。

「おはようございます」と艶子の爽やかな声が響いた。寛太は嬉しくなった。なぜか心が浮き立つのを覚えた。

「おはようございます」と寛太も大きな声で応えた。

 

 夕方学校から帰ってくると、客で店内はにぎわっていた。

 ある日、艶子が寛太に、

「寛太さん、帰って来てすぐなのにすまないね。ちょっと店を手伝ってちょうだい」と言った。

 寛太は、にっこり微笑んで、

「はーい」と元気な返事をした。その後、店に立つのが慣例になっていった。

 

「あなた、あの子は商売向きかもしれないわね」と艶子は三十郎に話すのであった。寛太は商売で物を売ることが、徐々に面白くなっていった。仕入れて店に並べて客に売る。そして利ザヤを稼ぐ。沢山売るために様々な工夫をしてより多くの量を売ることによって、儲けが増える。寛太は八坂家に下宿させてもらいながら、商売のいろはを自然に身に着けていったのである。

 

 中学校の一年生のクラスは五組、寛太は二組だった。担任は女性の亀山という優しい先生だった。二組の生徒数は四十人ほどで男女の比率は約半分の教室だった。遠くから通っている生徒も多く、寛太のように通学できない生徒は下宿先を探して、そこから通学している子供も何人かはいた。寛太は教室の中でも成績は常にトップクラスで、特に算数や理科が得意だった。国語は苦手だった。本を読んでいるとすぐ眠気が襲ってきた。

 

 ある日の国語の授業のとき、教科書のなかに有名な小説の一部の箇所を、皆で読み合わせをして、その感想を述べあうことがあった。亀山先生が、寛太に感想を聞いた。

「本山君、この人物をどう思いますか」

 その人物は、常に悪さをして他人に害を与えて人間の風上にも置けないという内容の小説だった。

 寛太は、その場ですっくと立ち上がり、

「先生、俺は、この人は人間の風下にも置けない人だと思います」と言った。すると教室中に笑いが起きた。寛太は皆なぜ笑っているのか判らなかった。

「寛太君、風下じゃなく、風上と言った方がしっくりくるわね。また、俺と言わないで僕と言った方が、良いと思うよ」と亀山先生が諭してくれた。寛太は間違ったようだと思った。恥ずかしいという気持ちが噴出して、見る間に顔が真っ赤になってしまった。それ以来、寛太は、例えば古今東西の有名な小説を読むように努力した。そして、苦手だった国語を克服していった。

 

 学校から帰ると、寛太は店に立った。それが当たり前になってきた。艶子が、いつも褒めてくれた。

「寛太君、ありがとう。毎日お店でお客相手によく働いてくれる。主人もありがたいと喜んでいるわ。毎月、寛太君のお母さんから、下宿代が送ってくるけど、夏休みが終わり、こちらに戻ってきたら、それ以降は送金はいらないと、お母さんに必ず伝えて頂戴ね」と言ってくれた。

 寛太は、恐縮した。この時ほど、人のありがたさを感じたことは無かった。

 

 昭和三十五年の二学期が終わり、夏休みになった。寛太は一か月間ほど、田賀村に戻った。行きは八坂商店に出入りしている酒屋のライトバンに乗せてもらった。ライトバンを降りた寛太は、酒屋の運転手に礼を言って、我が家に走って戻った。

「かあさん、ただいま!利津今戻ったよ」とバラック建ての我家の玄関の戸を開け、中に入り叫んだ。家の中は柱時計が時を刻む音だけがしていた。

 家の裏手にいた利津が「あんにゃ、おかえり」と力なく応じた。

「かあさんは?」

「入院した」

「どうして?」

「働きづくめで、体調を崩した」

 寛太は、母親の無理を重ねた末の入院を思い、辛い気持ちになった。そして、仏壇の前に正座し手を合わせた。

亡き父親の位牌があった。手を合わせながら暫く目を瞑り、祈っていた。

 立ち上がろうとしたとき、頭が何かにぶつかった。ランプだった。

 

 寛太は、利津の次の言葉を待った。利津は次のような内容を話したのである。

 つい先日の事、母親の京子は、朝早くに、山菜採りに山中に入った。午後から麓の町に売り歩く予定であった。

 

 その日、午前中で授業を終えた利津が家に帰ってきたが、その時点で京子はまだ戻っていなかった。しかし、昼を過ぎ夕方になっても帰ってこなかった。利津は不安になり、桑田の家に駆け込んだ。桑田の親爺が、男連中を五人ほど集め、山に捜索に入った。暗闇のなか声を張り上げて、京子の名前を呼びながら捜索した。一晩中探し回った。夜が白み始めた頃、田賀村から山奥に一時間ほど入った沢で、倒れている京子を見つけた。顔を近づけて、京子の名前を叫んだ。京子は意識を取り戻した。季節が夏だったことが京子の命を救った。五人は交代で、京子を背負い、その日の朝方に京子の家まで運び入れたのであった。家にいた利津はその晩一睡もできなかった。

 

 寛太への仕送り、生活のためのお金など、苦しいやりくりの中で、満足に三度の飯にも事欠きながら、必死に生きてきたが、精も根も尽き果て、山菜採りの途中、気を失ってしまったらしい。

 集落の人の軽トラックに京子を乗せて、麓の診療所に運んだ。京子は診察の結果、重篤な栄養失調であった。京子は直ちにその診療所から一時間ほど離れた、北栃市民病院に入院した。

 利津は、寛太に連絡を取ろうにも、取る手段がなく、三日後には夏休みで家に帰ってくると手紙で知らせてきていたので、寛太の帰りを待つことにしたのであった。

 

 利津の話を聞いた寛太は、

「そうだったのか。かあさんが大変な中、僕に仕送りをしていてくれた」と言って絶句した。

「明日かあさんの入院している病院に行ってみよう」と利津に話した。

 

 次の日、寛太と利津は最近運行したバスに乗って北栃市民病院に出かけた。

 京子は二階の内科病棟の二一五号室の一番手前のベッドに横たわっていた。

「かあさん、きたよ」と寛太は枕元に近付き声を掛けた。眠っていたのか、その声で京子は薄っすらと目を開けた。

「あぁ・・寛太か、利津か・・かあさんも焼きが回ってきたよ」と消え入るような声で言った。

 京子は一週間後に退院した。

 

「寛太、学校の方はどうかね」と京子が寛太に聞いたので、寛太は通信簿をカバンから出して母に渡した。それを見た京子は、

「お前、大した成績がいいね。クラスで三番だよ」と京子は嬉しそうに言った。母親には一番の良薬だった。

「かあさん、下宿先の八代のおじさん、おばさんが、休み明けから、下宿代は一切受け取らないと言っていた。その理由は、学校から帰ってきてから、店の手伝いを僕がしているので、そう言ってくれたと思う」と寛太が言った。

 京子は、大きく目を見開き、「そうね、そうね」と嬉しそうに頷いた。毎月の下宿代は授業料よりも多い。それが無くなると思うと京子は内心、肩の荷が少しおりたような気持になった。

「かあさん、中学卒業したら、僕は一生懸命働くから、心配しないでおくれ」と寛太が言うと、京子は怖い顔をして、

「寛太お前は死んだ父さんに似て、頭がいいから、高校、大学へ行くのよ。家の事は心配しないで」と言ってくれたのである。しかし、寛太は、母親には心配をかけたくなかった。黙ってうなずくしかなかった。

 

 母親の京子は、話題を変えて、

「ここら辺も、あの鉄砲水以来、他のところに越す人が増えてね。十二戸あった家もいまはわずか七戸しかなくなった。三十人に減ってしまったよ」と言ってため息をついた。

「かあさん、田賀村に留まるの?」と寛太が言うと、京子は目を瞑って思案した顔をした。

 妹の利津は、

「ほかに、何処にもいけねえ」と呟いた。

「今暫くここで気張るしかないね」と京子が吐き出すように言った。そして、

「さあ、久々に寛太も帰ってきたのだし、鬼に金棒だ。気張るべし」と、病人であることを忘れるような京子だった。やはり、長男が帰ってきたので、嬉しそうだった。

 そして、夏休みの一カ月は、あっという間に過ぎていった。寛太が福地町の八代家に戻る日が来た。

 

 八代家に戻った寛太は、学校と店の手伝いで毎日懸命に生きていた。

「寛太君、商売面白そうだね。うちとしても寛太君がいると大助かりだよ。ありがとう」と八代三十郎と艶子が寛太に感謝する毎日だった。いっそのこと、養子として入ってもらおうかと、話し合う八代夫婦だった。

 

 寛太の実家では、京子の体調がなかなか以前のように戻らなかった。すぐ疲れるのであった。その様子を利津が手紙で寛太に知らせてきた。寛太はその手紙を読みながら、母親の事が心配であった。父親が亡くなってから無理を重ねてきた。寛太は何とかしなければと思うのであった。

 

 ある日、八代夫婦に相談した。

「実は、母親のことですが・・」と寛太は父親が死んでからのことを話し始めた。

 じっと寛太の話を聞いていた艶子は、時には涙を浮かべながら、

「寛太君、お母さんも大変な中、無理をしたのね。ところで妹さんの名前は?」

「利津といいます。来年三月小学校を卒業します」

「そうだったのね。主人とよく相談します。少し時間を頂戴、ねえあなた」と艶子は夫の三十郎を窺った。三十郎もにっこり微笑んで頷いていた。

 

 その日から一週間後の夜、寛太は思いがけない話を八代夫婦から聞くことになった。

 三十郎が、話を切り出した。

「寛太君、結論から話すと、君のお母さんと妹さん、利津さんだったっけ。ふたりをここに住んでもらおうと思っている。艶子とよく話し合った上での結論なのだよ」

 艶子は、大きく頷いた。寛太は、八代夫妻の暖かい真心に、思わず、

「ありがとうございます」と深々と頭を下げ暫く顔をあげることが出来なかった。このまま田賀村で二人が暮らしていたら、母親は命を縮めるかもしれないと寛太は思っていた。

 

 三十郎は、話を繋いだ。

「今度の休みの日にでも、田賀村に行って、お母さんと妹さんの気持ちを聞いてきてほしい。勿論、お母さんはここで働いてもらう。利津さんは、ここから中学校に通えばいい。お母さんの体調を考えると、早い方が良い。厳しい冬が来る前に。今度の休みに、行ってくれるかい。車の手配をしておくから。朝早く出発してほしい」

 寛太は、三十郎と艶子の心遣いに感謝をしてもしきれない気持ちになった。

 

 その三日後の日曜日、寛太は朝早く、田賀村に向かった。山々の緑が目に染みた。車の助手席の窓を開けた寛太の顔には、さわやかな風があたった。寛太は深呼吸をして、その風を吸い込んだ。

 

 不安な気持ちの中で、窓外の景色だけが、移ろっていった。

 田賀村の我が家に着き、家の中を覗くと、利津の姿が見えた。母親は、布団に横になっているのだろうか、姿は見えなかった。

「ただいま!」と寛太は大きな声を上げた。まだ朝の八時過ぎだ。

「あれ?あんにゃ、どうしたの?」

「うん、ちょっとかあさんと利津に相談したいことがあってね。かあさんは横になっているの?」

「朝ご飯を食べて、横になっている」と利津が衝立に目を向けた。すると、衝立の奥から京子の声がした。

「寛太、帰って来たの。今日はどうした?」と訝しい声で寛太に聞いた。寛太は、家に上がり、衝立の奥の京子の傍に座り、母親の顔を覗いた。ずいぶんと痩せおとろいた姿だった。思わず、寛太の目頭が熱くなった。

「かあさん、あとで、相談したいことがある」と京子に言った。

 利津にも同じことを言い、寛太はあの滝つぼに向かった。

 

 滝つぼの周りは賑やかだった。いつものように寛太を迎えてくれた。数羽の小鳥のさえずる声が、もう少しで夏の終わりを告げるように寛太には聞こえた。滝つぼのまわりの岩場に腰を掛け、落ちる清流を眺めていると、ここを去る寂しさと今までの辛い生活を思い、涙が流れた。寛太は心で吠えていた。強くなれと。

 

 家に戻ると、利津が昼ごはんの準備をしていた。水団汁のいい匂いがしていた。

 食後、寛太は京子と利津に、八代のおじさんとおばさんが、ぜひとも二人を引き取りたいとの話をした。

「先日、八代のおじさん、おばさんに、この家の状況を話したことがあって、ぜひとも、かあさんと利津に八代家に転居して一緒に住んでもらいたい。かあさんには、療養しながら、調子のいい時だけ、店の手伝いをしてもらい、利津は八代の家から中学校に通えばいいのではと。生活費は八代のおじさんが一切面倒をみるので、心配しないように、との話があった。

 ここに居ても、先行き不安だけが増すだけだと僕は思う。鉄砲水がまたいつ襲ってくるか。いっその事、三人で八代の家で暮らしたらいいと僕は思う。いい話だと思う。かあさん、利津どうだろうか」

 じっと、寛太の話を聞いていた京子は、俯いて泣いていた。このような気弱な母親の姿をみたのは初めてだった。(僕がいないこの家で、利津とふたりきりの生活がかあさんの躰をむしばんでいた)と寛太は思った。利津が手紙で知らせてくれなかったら、寛太は気づかなかった。

「あんにゃ、私、福地町に行くこと賛成よ」と利津が京子の顔を窺いながら、言った。

 京子は、力なくにっこり微笑み、

「寛太、利津がそういうのだったら、かあさんもそうしようかな。でもね、他人様の飯を食うということは、どうしても自分の身を卑下するようになる。そうならないために、かあさんも一生懸命八代商店で働くよ。そして三人で力を合わせ、八代家に迷惑かけないようにしようね」京子の言葉は、これからの人生を生きていく我が子二人の胸に強く迫った。

 その晩は夜遅くまで寛太の家の灯りがついていた...…

 

 積もった雪が融けきれない早春の肌寒い朝だった。本山京子、娘の利津、そして寛太の三人は軽トラックに揺られ、田賀村を離れた。

 

 寛太は田賀川のあの源流の滝つぼを思い浮かべながら流れる景色を追った。
 これからの自分の人生も、水無川から出た清流の如く、淡々と流れ、たくましく生き抜いていこうと強く決意した。

 

 昭和三十六年三月末のことであった。  了


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?