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【連載】しぶとく生きていますか?㉖

 茂三と淑子に思いもかけない、嬉しい出来事があった。

 終戦の三年後の昭和二十三年の春、一茂が生きて還ってきたのだ。

 昭和二十年の五月、一茂は知覧の飛行場から飛びだった。搭乗した零式戦闘機の調子が思わしくなく、開聞岳を過ぎてから、徐々にエンジンの出力が低下した。そして沖永良部島の国頭岬の南側に墜落した。

 一茂は墜落時、右足を捻挫し、顔に大きな傷を負った。その近くに一軒家があり、その家の娘の貞子が一茂を発見した。そして家まで運び看病した。
 一茂は幸い命を取り留めたのであった。
 しかし、知覧基地では、帰還しない一茂を戦死と判断したのだった。
 貞子の献身的な看病のお陰で、一茂の躰は一カ月後には全快した。ただ、北海道の両親に自分が生きていることを伝える手段が無かった。その三か月後に終戦を迎えた。貞子の一家は、大勢子供がいた。貞子は長女だった。十八になる器量の良い娘だった。一家は、その日食べるための少ない食料を、分けあっていた。
 一茂は命の恩人の貞子の為に、畑仕事やら、男仕事に精をだした。貞子の父親は、貞子が小さいころ、病気で既に他界していた。祖父母、母それに貞子を筆頭に五人の弟妹の家族なのだ。男手が必要だった。

 終戦後、既に二年が経っていた。一茂はいままで何通もの無事を知らせる手紙を襟裳のフンコツにいる茂三と淑子に宛て出したが、何の返事もなかった。後で分かったことだが、その手紙は終戦のドサクサで、鹿児島で滞っていたのだった。
 一茂は貞子の一家と生活をするようになり、貞子との間に愛が芽生えた。
 二人は、結婚の約束をした。

 三年後の昭和二十三年春、一茂は貞子を伴って北海道行きを決意する。
 何日もかけて、北海道を目指した。そして、ついに二人は庶野の土を踏んだ。
 昼過ぎ、二人は見晴台の加藤家の玄関の戸を叩いた。
「父さん、母さん、ただいま!」
 家の中にいた茂三と淑子は、驚いた。戦死したはずの一茂が玄関にいる。
 淑子は一茂の亡霊がでたと思った。父母はきょとんとして、声を上げることができなかった。幾分間を置いて、淑子の泣き声が家じゅうに充満した。
 茂三は、座り机で本を読んでいた時だった。
 二人は家の中に入って、居間に座った。
「一茂! 生きていたのか?」茂三は涙で息子の顔がぼんやりとしか見えなかった。
「その女性は?」と淑子が一茂に寄り添っていた女性を尋ねた。
「今度、俺と所帯を持つ貞子だ。貞子二人に挨拶しろ」と一茂は貞子を促した。
「貞子と言います。よろしくお願いします」と改まった姿勢で言った。
「父さん、うちの一茂が嫁を連れてきたよ」と淑子は顔をもみくちゃにさせて、言った。

 一茂は、知覧基地から零戦闘機に乗り、南方に行く途中、飛行機の不具合で、沖永良部島に不時着し、貞子が一茂の怪我を治療してくれたこと。手紙を何回も出したことなどを、話したのであった。いつの間にか、外は夕闇に包まれていた。
「父さん、フンコツの家は、まだあるか?」と一茂が茂三に聞いた。
「あそこは、津波にやられ、跡形もない」と茂三が顔をしかめた。
「ここ、見晴台の仮設住宅に住んでいると、庶野の駐在さんに聞いた。大きな津波だったんだね。無事でよかった」と一茂が涙ぐんだ。

 一茂は、一カ月ほど仮設住宅にいたが、軍隊時代の知り合いが札幌で建築関係の仕事を紹介してくれるとの事で、その後、貞子と共に札幌に住むことになった。
 

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