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熊雄(連載⑪)

 熊雄は、ヒグマ係のサブ要員として働いた。
 餌づくり、餌やり、厩舎きゅうしゃの掃除、そしてミーティングを繰り返す毎日だった。そういう中でも、忙中閑あり、だれもいないことを見計らって、ヒグマと会話する。
 その厩舎には雄雌二頭のヒグマがいた。
 熊雄が話しかけると、その二頭は夫婦であることが判った。毎日単調な生活にそのヒグマたちは辟易へきえきしていると熊雄に話しかけるのであった。やはり自然での生活がいいのだ。
 ある時、雄グマが熊雄に、ここから出してほしいと懇願した。しかし、熊雄は、それは難しいよと困った顔で言う。
 クマと会話ができること、それがかえって熊雄を悩ますことになっていた。
 先輩の飼育員の芳男が、熊雄の落ち込む姿を心配そうに見つめていた。
 熊雄が朝日動物園に臨時採用になって半年が過ぎた初秋のある日、芳男が熊雄に向かって声をかけた。
「熊雄君、ちょっと話があるんだけど」
 熊雄の十歳年上の芳男は、おもむろに話し出した。
「最近、元気がないようだけど」
「別に変わりませんよ」
「ここへ来た当初に比べたら、言葉数は少なくなるし、いつもボーとしているようだけど。心配なんだ」
「ご心配かけてすみません」
「なにかあったのかい」
 熊雄は、先輩の心配してくれている気持ちが痛いほどわかり、申し訳なさでいっぱいになった。
「すみません。実はヒグマの夫婦のことで」
「言ってみなよ」
 暫く、熊雄は無言で下を向いていた。
「ヒグマが怖いのか」
「そうじゃなくて、あの夫婦グマが、最近は元気が無くて心配しているんです」
「え? あの二頭のクマは夫婦なの? 熊雄君どうして夫婦だと判るの?  実は僕もヒグマの元気の無さを心配していたんだ。熊雄君がそのことで元気がなくなるのはおかしいよ」
「実は、ヒグマの気持ちが分かるんです。僕がこれから先輩に話すことを誰にも話さないでください。約束守ってくれますか?」
 芳男は、一瞬躊躇したが、
「約束するよ!」と言った。
「じゃ話しますけど、ほかには絶対話さないで下さいよ、頼みますよ!」
「わかったよ」
「僕、ヒグマというか、動物と会話ができるんです」
「マジかよ!」
「言ったでしょ! 約束したでしょ」
「わかった、それで?」
「実はヒグマが...…、特に雄グマが檻から出たがっているんです。このまま何もしないで何か対策をしないと、隙を見て脱走するかもしれないんです」
「それは大変だ。園長に話してみるか」
「先輩! それはやめてください!」
「万が一、問題がおきたら、大変だぞ。一応雄グマの様子がおかしいと園長には僕から報告しておく」
「先輩、ありがとうございます」
 熊雄は、園長まで報告しなくてもよいのではと思いながらも、同意したのであった。
 
 しかし、後日、その心配していたことが、起きてしまったのである。
 先輩が事前に園長に報告していたことが起きてしまった。
 動物園では、どんな些細なことでも、その日の日誌に担当者が記入しておく。それを上司がチェックし、飼育している動物の些細な変化も見逃さないことが、衛生管理・危機管理上重要になる。
 熊雄は後日、そのことを身をもって体験したのである。
 

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