見出し画像

私の人生を変えた本

この本と出会ったのは24年前
私が22歳の時であった。
こっちの画像は新訳のほうだけども。

こっちの方の本を先に読んでて
「ティファニーで朝食を」の原作者の伝記として
カポーティという作家と初めて
向き合うことになったわけだけども。

ジェラルド・クラーク著のこの「カポーティ」は
後にフィリップ・シーモア・ホフマン主演で映画化される
ことになる。

そしてトルーマン・カポーティという作家の生涯を通じて
「冷血」という作品の経緯や意味を
ある程度、知った上で
「冷血」という作品を読んだわけだ。

この本のあらましを言うと

1959年11月16日
アメリカ カンザス州 ホルカムで
農園を営む一家4人が惨殺された。

まじめで誠実、人柄はもうしぶんない
絵にかいたような幸せな一家で
周囲から恨みを買うような人など一人もいなかった。

農場主はのどを掻き切られた上に、
至近距離から散弾銃で撃たれ、彼の家族はみな、
手足を紐で縛られた上に
やはり至近距離から散弾銃で撃たれていた。

特に金目のものが盗まれたわけでもなく
被害者らが性的暴行を受けた形跡もない。

いったい、なぜこんなむごいことが?

という所から話は始まり
犯人であるヒコックとスミスの
死刑が執行されるまでの話が
本作品である。

カポーティはこの作品において
病的といってもいいほどの
執着をみせた。

犯人の周囲の人物、家庭環境、関係者への取材は
もちろんのこと、
これは日本では不可能なことなんだけども
裁判中の二人に何度も直接インタビューし
肉声を集めていた。

6年間かけてカポーティが作品を完成させるまでの間
のべ8000ページを超える資料を
彼は書きあげていた。

それら一連の作業は文字通り、鬼気迫るものであった。

そして彼はこれらをまとめあげて
350ページ程度の小説として世に発表した。

単なる事件に関する話ならば
ルポタージュでしかないのだけども
小説「冷血」はあくまで
小説という体裁で書かれた作品である。

なにも知らない人が読んでも
一つの小説作品として読めれる文体、内容でありながら
書かれている内容はすべて
実際に起きたこと、本人らが言ったこと
のみで構成されているのが凄い。

また作品中で作者としての
「私」は一切登場しない。
作者自身の「私はこう感じた、思った」という描写は一行もない。

自らあつめた膨大な量の資料の中から
淡々と起きたことを追っていくときに
情報の取捨選択が行われるわけだが
それを通じてのみ、
作者の意図が浮かび上がる
といった構図だ。

これは覗き趣味のゴシップ小説ではない。

犯人らが殺害にいたるまでの心理描写は
とりわけ圧巻である。

犯人のヒコックとスミスは、それぞれ
軽犯罪でつかまって刑務所の中で知り合い
お互いの恵まれない生い立ちのせいか
意気投合した。

刑務所の中で他の囚人が
「あそこの家で昔、収穫時期にバイトして働いてたけど
あそこの家はかなりの金持ちだ。
たんまりと金があるに違いない」

という話を小耳にはさんで
二人は刑務所から出たあと
その家に強盗にいく計画をたてた。

あくまでカネだけもらってトンヅラするだけさ、楽勝な話だろ?

と二人は思っていた。
が、いざ目的の農場主の家についてみると
その家には金目のものは全くなかった。

農場主が豊かな家庭であったのは事実だけども
農場主は大の現金ぎらいで
普段から小切手でしか決済しない、という人であった。
また、普段から質素な生活を是としていたため
家の中には金になるようなものは
まったくといっていいほど無かった。

この現実に犯人の二人は激昂した。

これまでずっとツイてこなかった自分らの人生
これでやっと巻き返しができると思ってたのに
それもこれでパーだ。

そこにこれまで積み重なってきた自分の
人生への恨みつらみが
どっとあふれ出してきて
二人は一家全員殺害の凶行へと
一気に突き進むことになる。

ここの描写は本当にすさまじかった。

「話してても真面目でやさしそうな口ぶりだったし
この人とは仲良くなれそうだ、と思ったよ。
ナイフで喉をかき切るまで、は、ね」

と犯人が語るわけだけども

カポーティがここまで
こんな恐ろしい事件に入れ込んだのには
それなりの理由があった。

それは犯人の生い立ちと
自分の生い立ちとで酷似していた部分が
多数あったからである。

とりわけ犯人のひとり
ペリー・スミスに対して
カポーティは深く共感していた。

カポーティは自身とスミスとを対比して
後にこんなことを言っている

「同じ家で二人の男が育った。
ひとりは表玄関からでて行き
もうひとりは裏口からでて行った」

かたや
人気作家でセレブであるカポーティと
死刑囚になったペリー・スミスとの
ふたりの人生には
紙一重の違いしかなかった、と
カポーティ自身、強く感じていたのだ。

作家として
どうしてもそこに
切り込まずには
いられなかったのだろう。

「心の闇」という安易な表現で語るのは嫌いだが、
それでもやはりカポーティは
ペリー・スミスという死刑囚の
「心の闇」と対峙することで
自分自身のかかえる闇と
向き合おうとしていたのではないか

と私は感じた。

In Cold Blood
「冷血」
というタイトルについて

何をして「冷血」なのか?
については
現在大きく、3つの
解釈がある。

第一に
なんの怨恨もない初対面の家族を
一家惨殺した犯人二人が
「冷血」である、という考え方

第二に
こういった凶悪犯罪者を生み出した
現代アメリカ社会というものがもつ
そのシステムこそが
「冷血」である、という考え方

第三に
取材のためとはいえ
死刑囚ふたりに、親身になって
話をききながら

一方では犯人たちが一日でも長くいきて欲しい
という態度をうわべでは、とりつつ

もう一方では、作品の完結
つまり二人の死刑が執行されて話が完結するために
一刻も早い死刑執行を望んでいた

作者のトルーマン・カポーティ自身こそが
「冷血」である、という考え方。

これについてカポーティは
何も語らないまま死んでいったので
真相は闇であるが、
どの説もそれなりの説得力は、ある。

殺人というのはもちろんダメなことなんだけども
そういった事件の経緯を見て
あるいは犯人の生い立ちをみて
「まかり間違えば、自分がそうなっていたかもしれない」
と思うぐらいの謙虚さは
人生において
必要なのではなかろうか?

当時の私は大学入試もとっくに終わって
日常生活ていどならば
英語はできてたんだけれども

この本がきっかけで私は本気で勉強するようになった。

この本を原書で読めるようになりたい
心からそう思った。

「生きている彼らをみた最後の人々」
と日本語で理解するのと

The Last to see Them Alive
と英語で理解するのとでは
まったく違う。

冒頭の

The village of Holcomb stands on 
the high wheat plains of 
western Kansas,
a lonesome area that
other Kansas call 
'out there'.

ホルカムという農村地帯は
西部カンザス州の穀倉地帯として
立地しており、
カンザスの地元民たちは
「あっち側」と呼ぶ
鄙びた地域である

ざっくりした日本語に訳すとこんな感じなんだけれども
この作品は英語として読んで
声にだして読んでみて
英語の単語のリズムを楽しんでこそ
初めてその作品の真価が現れる。

この作品は映画化もされているし
内容をおさえるだけならば
日本語訳で十分なんだけれども

カポーティという作家は
「まったくバラバラの単語をわーっと空に向けて投げ上げて
それらを完璧な順番に並び替えることができる、
その点で私は天才だ」
と自身を評価しており、実際のところ、その通りである。

ゆえに、この作品を堪能したければ
最低限、原書で読めれる程度の英語力は
必須であった。

大の努力嫌いと自負していた私が
なんとか英検一級に合格できる程度にまで
行けたのは、この作品があったからだと
今は思う。

その点でこの本は
私の人生を変えた一冊であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?