【短編小説】三杯と三顧の礼
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二度あることは三度ある。三度目の正直。仏の顔も三度まで。
三度というのは重要な数字なのかもしれない。一度でも二度でも、四度や五度でもない。三度が大事なのだ。
「珈琲、飲むか?」
社内の自販機の前で俺がそう聞いたとき、後輩は言った。
「すみません。珈琲、苦手なんですよ。」
「なんだ、珈琲も飲めないのか。おこちゃまだなあ」
今時の若者は、と言いかけてそこで止める。若者とひとくくりに何でも断罪してはいけない。それは、俺が若者だったときに最も嫌ったことじゃないか。それに、そんなセリフを言ってしまうと、年をとった定年退職前のオジサン連中の仲間入りをしてしまう。まだそんは年ではない。
「珈琲が飲めないだけでおこちゃまなんて決めつけないでください。気持ちだけ、受け取っておきます」
そう言って後輩は自席へと戻っていく。俺は珈琲のボタンを一度だけ押す。ガコン、と間の抜けた音がした。
「珈琲……飲むか」
寒空の下、俺は歩いていた足を止めた。隣で歩いていた後輩も、仕方なく足を止める。足取りは重い。これは吹き付ける風のせいでない。取引先からこっぴどく叱られてきたところだからだ。
「……僕が珈琲苦手なこと、知ってますよね」
「知ってるよ。けど、こういう時には珈琲が一番効くの。ちょっと待ってろ」
後輩は顔を伏せたままで、こちらを見ない。見られたくないのだろう。新人という雰囲気は抜けていたが、こういうところはまだまだ子どもだなと思う。
気にせずに後輩を外に残してコンビニに入る。珈琲の小さなペットボトルを2本。ブラックと微糖を1本ずつ購入。コンビニを出ると、後輩はうずくまって待っていた。
「ほら、お前の分」
「だから、いりません」
「いいから飲んでみろって。先輩命令」
「パワハラですか?」
「んじゃ、訴えるか? 珈琲を無理やり飲まされましたーって」
そう言うと、後輩は少し吹き出すように笑った。
「考えるだけで、くだらないですね」
「だろ? 騙されたと思って、飲んでみろ」
後輩は珈琲のボトルをかじかんだ手で開けて、一口飲んだ。途端に顔を歪める。
「うわっ、にがっ……」
「そうだろう、苦いだろう。辛いことがあったときはな、そうやって表情筋を動かすのがいいんだぞ」
「それ、ソース(情報源)はどこですか?」
「もちろん俺だ」
「でしょうね」
苦笑いを浮かべてまた後輩は珈琲を飲む。
「なんで大人が珈琲飲むのか、俺も分からなかったんだけどさ。この年になってなんとなく分かったよ。
きっと、苦いって気持ちで、辛い気持ちをかき消そうとしてるんだ。苦いって思うとさ、辛いことなんかどーでもよくなってくるんだよ」
「そういうものですか?」
「あぁ。不思議だろ?」
後輩はまた珈琲を飲んだ。
「やっぱり苦い……。けど、失敗したときの悔しさに比べたら、どうってことないです」
「そうか」
コンビニの前で、タバコを吸ってるサラリーマンや、たむろして話している男子学生たちに混じって、俺たちはただ珈琲を飲んだ。
「珈琲、飲みませんか?」
後輩が喫茶店の前でそう言った。思わず苦笑する。
「いいのか、お前、珈琲好きじゃないだろ」
「いえ、もう僕はそんなに若くありませんよ」
社歴でいうと中堅の部類に入る彼は、迷いなく喫茶店のドアを押す。その背中を見て、大きくなったな、と思う。
「珈琲ふたつ、ホットで。砂糖とミルクはいりません」
席に着くなり、彼はこちらに相談することもなく注文をした。
「たくさん、先輩にはお世話になりましたね」
「そうだったかなあ」
わざととぼけてみる。こういう湿っぽいのは苦手だ。
「先輩には、たくさんのことを教えてもらいました。たとえば、その、えーっと」
いろいろと頭で浮かんで考えがまとまらないのか、言葉につっかえている。客の前ではこんな風につっかえることはなくなったのに。
「いいよ、無理に言わなくて」
「いや、でも。その……」
「お待たせしました。珈琲です」
ちょうどそこに、珈琲が運ばれてきた。後輩はそれを見て、とっさに言った。
「たとえば、珈琲の味を教えてくれました」
あまりにも真面目に言うものだから、笑ってしまう。
「ははっ、なんでよりによってそれなんだよ。もっとあるだろう」
「そうなんですけど、それしか浮かばくて」
少し恥ずかしそうにする。あぁ、やっぱりこいつはあのときの後輩のままだな。
「近頃の若者は珈琲くらい飲めないとって思ったんだよ」
「なんですか、それ。お説教ですか?」
「違うよ。あのとき言えなかったセリフ」
目を細めて珈琲を一口。俺はもう若くない。退職前のオジサン連中の仲間入りを果たしている。そう実感した。
珈琲は、寂しさと清々しさを混ぜたような味がした。
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