「とり乱す」男性学との出会い

以下、去年のFBで書いた文章。

資料収集のために『現代思想』を漁っていた折、2019年の「男性学」の現在という特集号が目についた。ぱらぱらと中身を見てみると、藤高和輝「とり乱しを引き受けること」という論考が一際目を引いた。
あくまで自分の認識と拙い理解だけど、男性学の主流は、ウーマンリブや女性学からの批判に対して、とり乱すことなくあくまで「男性的=理性的」に応答している。とり乱しにはとり乱しで応答するのが本来筋のはずなのに、結局、女性学が先にアカデミズムで制度化されているのを見て、追いつけ追い越せとばかりに躍起になっている。そう見えていたし、そう思っていた。だから男性学には切実さがないし、こんなの「当事者学」じゃないやと思っていた。大学時代の「男性学入門」が悪すぎただけかもしれないが…。
「男性学」の中には、とり乱しを引き受けようとしている人たちもいたのを知って嬉しくなった。いまは、自分の「男性性」と向き合って揺れている余裕はないけど、ジュディス・バトラーやっぱりおもしろそうだな〜。ちゃんと読みたい。
「自分自身を説明すること」は終わることのない絶え間ない「社会批評」(Butler 2005 : 8)を要求する。
藤高さんは、アイデンティティに孕まれる他者性や矛盾を引き受けるバトラーの営為を「共にとり乱しながら思考すること」と呼んでてしびれる。
「カテゴリー的了解によっては理解できないような、他者との交流やその喜びが存在する。〈とり乱し〉の先に、別の仕方で他者と出会う可能性が存在するのだろうか」。世界や他者は出会い方が違えば、見方を少し変えるだけでも大きく表情を変える。全然違う面を見せてくれる。

以上までが、一年前の文章。
この出会いが契機となり、藤高さんの『ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い』を読むことになっていきました。

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