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毒親は国家反逆者 罪悪感を抱きたい欲求 毒親の私益で子供を洗脳VS悪魔の都合で信教の自由 罪悪感の解釈

1、毒親の国家反逆
毒親は、国家に対して反逆行為をしている。
子供を私物化して、宗教的にミスリードする。
日本は民主国家だから、信教の自由を保障している。
信教の自由を保障して、国内の秩序を維持する方針である。
多分、信教の自由を保障しないと、国内は宗教戦争で、内乱状態になって、秩序が崩壊するからだろう。
それなのに、毒親は、自分の都合で子供の信教をコントロールする。
国家にとって影響がごくわずかだから、捨て置かれているけど、これの規模が大きくなると、国家反逆になる。
規模が小さくても、国家反逆になるけど、あくまでも警察が捨て置いているだけである。
軽く考えている人が多いけど、大規模になると、どこぞの巨大カルトによる子供の洗脳と方向性が同じだ。
1人なら無視しても、100人だったら、1000人だったら,、1万人だったら、10万人だったら、100万人だったら。
私腹を肥やすために子供を洗脳しているのと同じだからな。
国内のカルトに対して及び腰なのは、大抵の家庭で似たような事をやっているからだろう。
私益で子供を洗脳するのが良いなら、神のために自分を使う事を決めるのは許される。
多分、こういう考え方になるのを恐れたから、サタン側は、信教の自由を尊重しだしたのだろう。
各家庭で隠れて洗脳されると、大衆のコントロールが難しくなるから、信教の自由を保障するのがサタン側の都合だ。
「毒親の私益で子供の洗脳」対「サタン側の都合で信教の自由」だ。

2、戦後教育と毒親
戦後の教育は、信教の自由を保障しているのに、毒親は、そんな戦後の国家の教育方針すら無視する。
戦後教育の信教の自由を無視して、天の主に立ち帰るのかと言ったら、天の主をピンポイントで冒涜する。
他の宗教を信じるのかと言ったら、片方は乱交カルトにハマるけど、もう片方はあらゆる宗教に対して渋々と遠ざかる。
結局、自分の利益しか頭にない。
自分の利益になる時は、偶像崇拝に媚びるのが毒親である。
しかし、家庭では、子供の宗教をコントロールする。

3、気質
俺の毒親は、「自分の利益のため」に子供の信教の自由を侵害するタイプだ。
俺は、その気質を受け継いだのか「神のため」なら、国家の信教の自由を無視するタイプになった。
私益のために国家反逆をするのと、神のために国家反逆をするのは、全く違うけど、気質的には似ている。
そのため、実質的には同じ国家反逆になる事が、割と平然と出来る。
この辺りが親からの気質が遺伝しているから、平然と出来るのだろう。
私腹を肥やすための国家反逆をするような、毒親の気質が遺伝しているのだから、神のための国家反逆ぐらいなら平然とできる。
子供は親の言う事を聞かないけど、親のやる事は真似するとは、上手く言ったものだ。
毒親は、バレなければ良いと思っている人格をしている。
バレても子供に責任を擦り付ければ良いと思っていたのだろう。
そもそも、自分の行動が子供を洗脳して国家反逆になっているのが、自覚できているかどうかも怪しいものだ。

4、どの法律に違反するか
内乱罪 - Wikipedia
信教の自由 - Wikipedia 憲法は政府の暴政を防ぐものだけど
サタン側が勝手に決めた事だけど、人の立てた制度には従う。
毒親が法律に抵触するからといって法律違反が悪いとは思わない。
親の犯罪で申し訳ないとも思わない。

罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。

エゼキエル書 18章20節 新共同訳

親の罪は親が負い、子の罪は子が負う。
他人の聖書解釈を鵜呑みにして失敗したからと言って、それは鵜呑みにした方が悪いのであって、聖書解釈をした人は悪くない。
解釈した人は、後になって間違いを反省して、正したかもしれないからだ。

制度に従うだけで、制度を良いとは思わない。

主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。

ペトロの手紙1 2章13節 新共同訳

「制度に従え」とは書いてあるけど、親の法律違反に罪悪感を抱けなんて、聖書には書いてない。

5、罪悪感について 俺の解釈 
社会や人間に罪悪感を抱いてはいけない。
罪悪感は、天の主に対して抱くものであって、神以外に罪悪感を抱いてはいけない。
元々、神に対して罪を犯したから、神に対して罪悪感を抱くのが人間の本能というだけの話だ。
罪悪感と崇拝は方向性が似ているかもしれない。
だから、神に罪悪感を抱くのと、神を崇拝するのは、割と方向性が似ているかもしれない。
そのため、神以外に罪悪感を抱くと、偶像崇拝になりかねない。
まるで神以外が自分の上にあるような心理状態になるからだ。
神と自分の間に何かを入れてはいけない。

6、罪悪感を抱きたい欲求
罪悪感は、本来は、人類が神に対して犯した罪に対して感じるものである。
だから、本当は、神に対して罪悪感を抱きたい欲求が人間にある。
神に対する罪を犯したのだから、神に対して罪悪感を抱くのが普通だ。
人間が神に対して罪を犯した証拠は、エヴァが食べてはいけないと神に命じられた「善悪を区別する知恵の実」を盗み食いしたところから始まるのが証拠である。
神が考える良し悪しではなく、自分で良し悪しを考えるようになるのが罪なのだろう。
神に対する罪悪感が、人間が普段から感じている焦燥感の正体である。
強迫観念とも言う。
強迫観念 - 検索 (bing.com)
罪悪感は旧約の話だと思うけど、新約だと罪を肩代わりしてくれたイエス・キリストに感謝をして、律法を全うすればいい。
新約になって罪悪感の話が少なくなったからと言って、社会に罪悪感を抱いていい理由にはならない。
罪悪感を抱きたいなら、天の主に対して抱けば良い。
実際、天の主に対して罪を犯したのだから。

7、罪悪感を利用するサタン
「人間に対する罪悪感」を人々に抱かせて、支配しようとするのがサタンの手口である。
本来は、「神に対する罪悪感」を欲求している人間の本能を、他人に対する罪悪感にすり替えて、洗脳するのがサタンの罠である。
それを功徳や善行で罪を償えると騙して、人々から時間と人生と金を騙し取って、地獄へ道連れにする。
功徳や善行は偽物なのだから、いくら積んでも罪悪感の解消は不可能である。
「人間に対する罪悪感」を植え付ければ、それを足掛かりにして背教行為を唆す事が出来るからだ。
どうやって唆すのかというと、その相手の人間に申し訳ないと思うなら、相手の人間と同じ偶像・主義・思想を崇拝しろとか、そういう感じの誘惑をしてくる。
同じ偶像・主義・思想を崇拝しなければ、「申し訳ないと思っていない」「反省していない」と決め付けて圧力を掛ける。
人間に対して罪悪感を抱かないといけないなんて、聖書のどこにも書いてないし、人間に対して罪悪感を抱いて良いなんて書いてない。
そういう強迫観念や焦燥感や罪悪感を利用して、サタンは人々を罠に落として、地獄へ道連れにする。
神に対して罪悪感を抱けば、妙な強迫観念や焦燥感や罪悪感は消え去って、サタン側に人生を食い物にされなくなる。

8、信者同士、人間同士、
この世の人間同士は、対等と神は言っているのだから、人間を相手に罪悪感を抱く必要性は無い。
神の信者に対する加害は、神に対する加害だから、神に対して罪悪感を抱いて、謝罪する必要は有るけど、謝罪したら神は許してやれと言っている。
神に加害しても、神の代わりである信者に謝罪したら、神は許してくれるのである。
裁判所へ行くまでに和解せよと言っているから、謝罪したら許してやれと神は言っている。

新約聖書:ルカによる福音書:12章:58節
たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。

本当の信者なら、そもそも許している。

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

マタイ福音書 6章14節15節 新共同訳

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

マタイ福音書 18章21節22節 新共同訳

神は、相手が謝罪したら許せと言っているから、神を信じている信者なら、相手が謝罪したら許す。
謝罪しても許さない人間は、神を信じない背教者だから、背教者の気持ちなど気にする必要はない。
そもそも、背教者を受け入れない。
加害者を許しても、加害者が神に立ち帰らなければ、その加害者は背教者だから受け入れない。

この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。

ヨハネの手紙2 1章10節 新共同訳

だから、毒親が勝手に絶縁宣言してきても、俺はとっくに許しているけど、背教を続けている親は受け入れない。
神に立ち帰るまで受け入れない。
しかし、自覚もしないで国家反逆の内乱罪に違反する毒親もすさまじいと思う。
子供を都合よくコントロールするのが親の権利と思っていそうだから。
子供を奴隷か何かと勘違いしているのではないだろうか。

9、強制
唯一、正しい神である天の主を崇拝することを強制しても、神は怒る。
神が偶像を並べるのは、一人一人が自主的に天の主を選んで欲しいからである。
親が子供に、天の主を崇拝することを強制するのは、少し危ないかもしれない。
パウロのローマ帝国の暴力を背景にして、自覚なく強制していたから、神は怒って、罰として、嵐に遭わされたり、鞭打ち獄門になった。

10、サタン側の都合
天の主の教えを見えなくするために、偽物の宗教を何千何万と乱立させる。
今のサタン側は、こういうやり方で人々を惑わす。
昔は、暴力で弾圧していたけど、暴力だともっと信者が増えるから取りやめた。
権力者が必死で弾圧するのだから、本物に違いないという発想を大衆が持っているからだ。
ナポレオンがジャガイモを隠したのも、農民に盗ませるためである。
支配者が盗ませないように見張りを立てるのだから、きっと良いモノに違いないと勝手に逆張りするのが大衆というモノだ。
禁止されるとやりたくなるのが大衆である。

11、毒親が罪悪感を利用
人間の罪悪感を抱きたい欲求を毒親が利用して、子供に罪悪感を植え付けて精神的に支配する。
毒親が利用できるようなモノなんだから、「人間に対する罪悪感」なんかロクなモノでは無い。
罪悪感を抱いていいのは神に対してだけ。
神に対して罪悪感を抱けば、信仰心となって、正しい物事の見方が出来るようになる。

12、警告する理由
エゼキエル書33章で警告しない者は有罪と命令されたから、警告しているだけ。
俺が地獄へ落ちたくないから、警告しているだけ。
マウントを取るつもりが無いから、マウントを取られたくない人にとっては、改心しやすいのではないだろうか。
天の主は、そういうマウント癖の有る人が改心しやすくするために、俺のような素っ気無い人間に警告をさせるのだろう。
実際、警告した相手が改心しようがしまいが、どうでもいい。
警告した時点で、俺は地獄へ落ちなくて済むから、警告した相手がどうなろうがどうでもいい。
他人の自業自得の自滅を見殺しにする趣味が有るから、むしろ他人が警告を無視して、改心しないで地獄へ落ちる方が面白くて笑えるけどね。
せっかく警告して貰ったのに、台無しにするのか。
こういう風に言われたら、反発心から立ち返るのだろうか。
こういうのも含めて、俺に言わせているのが天の主なのだろうか。
そもそも、優しい言葉で諭されて、神に立ち帰るような性格の人なら、他の人の優しい言葉の聖書解釈で立ち帰っているから、ワザワザ俺の文章を読みには来ないだろう。
それなら、俺がワザワザ優しい言葉で諭す必要性もない。
色んな人が色んな多様な「警告」「忠告」「諭し」をしているのは、色んな種類の性格の人間が改心して、地獄へ落ちなくて済んで、天国へ入れるように、チャンスをみんなに平等に与える天の主の配慮なのだろう。
どんな風に平等なのかは、神を信じながら自分で聖書を読んでみたら判る。
神を信じていないと、何を読んでも理解できないから注意するように。

地獄へ落ちず、天国へ入る「たった一つ」の手段は聖書を読むこと。
他人の文章を読んでもキッカケにしかならない。
他人の文章を信じたのに天国へ入れなかったとか、地獄へ落ちたとか、文句を言われても何にもならない。
そもそも、他人の文章は天国へ入るかどうかと、全く関係が無いからだ。
天国への入国審査は、聖書に書かれている問題文しか出てこない。
他人の聖書解釈は、せいぜい参考とキッカケぐらいの役割しかない。

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