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あなたがあなたの偽メシア パウロがパウロの偽使徒 聖典の半分が信者個人への言葉

1、パウロにとって
パウロにとってパウロが偽使徒である。
パウロが偽使徒とは言ってないからね。
パウロに悪意が有るとも思っていない。
パウロは異常性が有るとは思っているけど。

それで、使徒の定義は、福音を知らせる事。
福音とは、おおざっぱに言うと幸せを齎(もたら)すという意味。
辞書から引くとこうなる。

1 喜びを伝える知らせ。よい便り。「―をもたらす」
2 イエス=キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。また、福音書にしるされているキリストの生涯と教え。

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福音(ふくいん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

パウロは、使徒を自称するから、パウロにとっての偽使徒に自分が成っている。
多分、天の主は、パウロに実演させて、本人にとっての偽使徒を演じさせているのだろう。
使徒の定義が幸せをもたらすのだから、偽使徒の定義は不幸を持ってくるのである。
だから、パウロはパウロにとっての偽使徒だから、パウロがパウロに不幸を持ってくる。
実際に、新約聖書を読んでいても、何かパウロがパウロに対して不幸を持ってきているような感じがする。
やはり、使徒を自称したりするから、神が怒って罰を下しているのだろうか。
嵐に遭って遭難したりするし。
ヨナ書でも、ヨナが神の命令に従わないで逆方向へ逃げて船に乗ったら、神が怒って嵐を起こして遭難させようとした。
パウロは、暴力で教えを押し付けるような、神の命令を行き過ぎた行動をしたから、神が怒って嵐に遭わせた。
神が偶像を並べるのは、人々が自分の自由意思で天の主を選ぶのを求めているからだ。
だから、自由意思を無視して、暴力で教えを押し付けると神が怒る。
パウロは、ローマ市民権を持っているから、ローマ帝国の軍事力という暴力で相手を脅して宗教を強要しているのと同じである。
以前に書いた、パウロの異常性である。
今の日本で例えるなら、アメリカ軍の暴力で脅しているようなものか、極道の暴力で脅しながら強要しているみたいな感じになる。
強要しているのが天の主の教えだから、何とかギリギリで神に許されている感じがする。
実際、嵐に遭わせても、神はパウロを殺すまでやってないから。
こういうのがパウロがパウロに不幸をもたらしている原因である。
だから、パウロにとってパウロが偽使徒だ。

2、あなたがあなたの偽メシア
メシアとは、キリストであり、救世主であり、救い主である。
パウロと同じように、あなた自身が自分の偽メシアになる危険性もある。
メシアの定義は、救い主、救世主。
ヘブライ語のマーシーアハが語源で、「聖油を注がれた」という意味。
マーシーアハから英語ではメサイア・メシアになる。
マーシーアハをギリシャ語で言うとキリスト。
イエスがいつ油を注がれたのかと思ったら、そういえば最高級の油を注がれていたな、最初は鳩が下りてきた時で。
それで、反メシアはどうなるのか。
反メシアの定義は、メシアの逆だから、この世から救わない、この世で苦しめるとか、そんな感じになるのか。

そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
あなたがたには前もって言っておく。
だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。

マタイ福音書 24章24節から26節 新共同訳

何が「見よ」だ
メシアは、イエス・キリスト一人だけなのだから、人の目に見えるモノなのだろうか。
だいたい、見なくても信じる者は幸いであると言っているだろう。
見えるような姿で現れる訳が無い。
何が「見よ」だ。

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネ福音書 20章29節 新共同訳

見ないのに信じる人が幸いと言っているから、見える姿で現れないと言っているようなものだ。
そうなると、メシアは自分の目に見えないモノだから、自分自身が偽メシアと考えるのが妥当なところだろうな。
反語表現と思ったけど、反転とか、修辞疑問文とか、そういう表現方法があった気がする。
本物のメシアが目に見えないから、偽物のメシアも目に見えない危険性が有る。
鏡に映ったり写真に写っているのは、自分の目で見ていないよ。
俺も含めて、自分が自分の偽メシアになる危険性が有るから、みんな注意しよう。

3、使徒や教師を名乗るから
パウロは、使徒や教師を名乗るから、嵐に遭ったり、鞭で打たれたりしたのだろう。
やってることは、暴力を使って特定の宗教を洗脳しているように見えるから、普通の治安当局なら罰する。
ローマ市民権を持っているから、権力者の報復が怖いから死刑に出来ないため、鞭打ちでお茶を濁す。
パウロ本人は迫害なんて思っているようだけど、俺の解釈では、人々の自由意思を尊重しなかったから神が人を使って罰したと思う。
でも、神はパウロを殺すまではしない。
市民権を持っていなかったら、普通に死刑になる。
暴力で宗教を洗脳しているから、昔なら普通に死刑になる。
今でも死刑になる国もある。
だから、市民権を持っている人間に、こういう役割をやらせる必要があったから、パウロが選ばれたのだろう。
俺も含めて、一人一人がパウロみたいにならないように自制する必要がある。

4、定義
俺の解釈でザックリ定義する。
メシアの定義は、この世から救う。
預言者の定義は、この世の危険を知らせる。
使徒の定義、喜びを齎して、幸せを持ってくる。
偽メシアの定義は、この世から救わない、救われるのを邪魔する、苦しみを持ってくる。
偽預言者の定義は、この世の危険を知らせない、危険をぼやけさせる、危険なモノを安全と騙す。
偽使徒の定義は、喜びや幸せを持ってこない、不幸を持ってくる。

5、偽メシアは自分だけど
では、偽預言者はどうなのか。
預言者は、当時の人は目に見えたりしていたから、偽預言者は目に見えるのだろうか。
目に見えるモノで、危険をぼやけさせて、安全と騙そうとするモノが、偽預言者の定義になりそうだけど。
偽使徒なら、パウロみたいになると判りやすいけど。
偽使徒や偽教師になると、パウロみたいな、しなくてもいい苦労をする事になるのが判る。
実際、実例が無いと判り辛いからなあ。
多分、パウロは、使徒や教師を名乗るような性根を治せば、嵐に遭うとか、鞭で打たれるとか、そういう苦労をしなくて済んだと思うよ。
パウロがパウロに対して偽使徒だから、偽使徒の定義はこの世の不幸を持ってくるから、パウロがパウロに不幸を持ってきた。
偽預言者もこれと似たようなモノか。
自分が自分の偽預言者だと、偽預言者の定義は危険を安全と騙すから、自分にとっての危険を安全だと自分で自分を騙す。
神は「パウロがパウロの偽使徒」を使って、判りやすく私たちに伝えようとしている。
その伝えようとしているのは、自分が自分の偽メシア偽預言者だとすると、自分にとっての偽メシア偽預言者である自分が、自分に何を持ってくるのか。
パウロがパウロの偽使徒だとこうなると説明している。
自分が自分の偽メシアだとこうなると説明している。
自分が自分の偽預言者だとこうなると説明している。
偽メシアが自分自身だった場合。
あなたがあなたをこの世から救わない。
あなたを救う事をあなたが邪魔している。
だから、パウロの手紙で、新約聖書の半分もの文章量を使っているのだろう。
新約聖書の半分は、俺やあなた達に伝える偽メシアの正体と影響を言っているのだろう。
パウロがパウロの偽使徒であり、それがパウロにどんな影響を及ぼしているのか。
そのパウロをモデルにして、あなたがあなたの偽メシア偽預言者だとすると、あなた自身にどんな影響を及ぼすのか実演している。
聖典の半分を使って、信者個人に直接的に伝えている宗教なんて、他に存在しない。
サタン側の偽装キリスト教団は、パウロを使って人々を騙しているつもりだろうが、見事に神の思い通りに動いている。
千年以上もパウロを聖人扱いしたから、今更パウロを聖人から外すなんて不可能だからな。

6、パウロの手紙
パウロの手紙は、9割は良い事を言っているから、普通に読めば良いと思う。
福音についても説明しているし。
手紙と一緒にパウロの異常性とか、パウロがパウロの偽使徒で影響はどうなるとか、実演している。
文才の無さから、意味の分からない単語を使ったりするけど。
新しい単語を出すなら、その単語の意味を具体的に説明する義務があるけど、パウロはその義務を果たしていないから、文才が無い。
パウロは、暴力で改宗を強要する異常行動がするけど、異常行動があるからと言って、言う事を全て否定するのは間違いである。
相手からしてみたら、ローマ帝国の暴力で脅されながら、何時間も説得されるのだから、たまったものではない。
パウロは、相手の気持ちを判る能力が無いから、こういう説得を何時間も平然とする異常性が有る。
市民権を持っている時点で、自分が暴力で相手を脅しているのに、それに気づいていないから、自分の行動や立場を客観的に見る能力もない。
ましてや、生まれ付きの市民権なんだから、両親も市民権を持っているため、相手に殺されても両親が復讐しに来るのは確定している。
でも、異常人格者だからといって、異常人格者の言う事を全て拒絶するのは間違いである。
パウロに悪意が有るとは思わない。
むしろ、善意の方が強い。
善意なら何をやってもいいのか、という話はあるけど。
善意を免罪符と勘違いしているのか、という話もあるけど。
異常者が良い事を言うなら褒める。
異常者が悪い事を言うなら批判する。
それだけの話だ。
パウロの手紙の内容をそれなりに守れるなら、神の教えも守れそうだから、普通に読んでもそこまでとんでもない間違いにはならない。
自称キリスト教団の司祭も指導してくれるし。
ただし、パウロの手紙の内容は、それなりに守れるならという条件だ。
完全に守ろうとすると、逆におかしくなりそうだ。
結局、最後は自分で聖書を読むことだ。
自分で旧約聖書も読んで自分で解釈すれば良いだけなんだから。


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