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憲法の条文は絶対ではない 自然権を侵害する条文は無効 信仰キャパシティ 見えないものを信じる力

1,自然権が主体であり、憲法条文は死に文である。
自然権とは、生存権・財産権・自由権などである。
憲法の条文は、自然権という目に見えないモノを理解する能力のない人に、判りやすく生存権・財産権・自由権を持っている事を理解できるように表現しただけの文章である。
その目に見えないモノを言語化しようとしたのが、ホッブズ・ロック・ルソーなどである。
そこから、日本国憲法などが文章にされた。
そのため、憲法の条文よりも、自然権の方が優先される。
まるで、憲法の条文が絶対のように話している人間たちは、憲法改正に賛成だろうが、反対だろうが、グルである。
もしくは、憲法を全く勉強していないか。
または、判っていて他人を食い物にしようとしているのか。
そういう、憲法の条文が絶対のような空気を作って人々を洗脳する。
実際は、憲法の条文なんか、何の効力もない。
自然権を侵害する憲法の条文が作られたら、その自然権を侵害する条文は無効になる。
憲法の条文は、目に見えない自然権を理解できない人のために書いただけである。
憲法の条文は、ホッブズ・ロック・ルソーの著書で討論すると長すぎるし難しい言い回しだから、仕方なく憲法の条文を使って議論しているだけである。
自然権を侵害する条文が出てきたら、最高裁判所で自然権について討論したり、国際法廷で裁判するか、自然権の考えを持っている人同士で団結して抵抗するか、色々やり方はある。

2,目に見えないモノを信じる力
自分の立場は、聖書を信じている。
そのため、自然権は、天の主の人々を守る手柄を横取りする手口だと思う。
天の主の怒りが怖いから、サタンは義人を殺せない。
誰が義人か判らないため、人々を無差別に殺すわけにはいかない。
義人が一人も居なくなると、ソドムとゴモラのようにコノ世界は亡ぼされて、最後の審判が前倒しになる。
サタンは、魂が消滅させられるのが確定しているから、何とか長引かせたい。だから、サタンは義人を殺せない。
だけど、サタンは出来るだけ大勢の人間を地獄へ道連れにしたい。
そのために、自分から魂を売るように人間を唆す。
人々が天の主の存在に気付くと騙せなくなるから、人々が天の主の存在が判らないように仕向ける。
そのうちの一つが自然権である。人権ともいう。
その人権によって人々が守られていると、人々に錯覚させる。
実際は、天の主が人々を守っているのだけど、それを公表すると人々を騙せなくなるから、人権で人々が守られていると騙す。
天の主が人々を守っている手柄を、自然権や人権が人々を守っているとすり替えて、手柄を横取りしつつ、人々が天の主の存在に気付かないように洗脳する。
どの道、目に見えないモノを信じられないなら、末路は悲惨なものになる。
自然権という目に見えないモノを信じられないなら、徴兵されて、近所の評判を気にして抵抗せず、戦場で無駄死にする。
天の主という目に見えないモノを信じられないなら、天国へ入れない。天国へ入れないと地獄へ落ちる。だから、末路は悲惨なものになる。地獄とは、火の海で全身と魂を焼かれ続ける場所。
あと、目に見えないモノを信じないと、愛とか信頼とか夢とか希望とかも信じられないから、この世でも悲惨である。

神であるイエス・キリストもハッキリと天国へ入れないと言っている。

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネ福音書 20章29節 新共同訳

「幸い」とは、天の主から見て人間の幸いは天国へ入る事だ。
「見ないのに信じる人は幸い」とは、神の姿や奇跡を見なくても神を信じる人は天国へ入れるという意味。
これが見えないモノを信じる力である。
財産とか生命とか家族は、ただのゴミであり、幸いではない。その根拠は次のとおりである。

イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。
重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

マタイ福音書 19章23節24節 新共同訳

26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

ルカ福音書 14章26節 新共同訳

自然権についての解説は、そういうのをやっている人はいくらでも居るから、そっちを読んでください。自分の立場は、聖書を信じている方だから、自然権は専門ではない。大学で憲法の単位を貰ったぐらい。

3,目に見えないモノを信じない人はどうなるのか
こういう自然権という目に見えないモノを信じない人間では、どの道、天の主という目に見えない存在を信じないのだから、説得しても意味がないのかもしれない。
サタン側もそれが判っているのか、目に見えないモノを信じられない人間だけを騙して殺すという手順を踏んでくる。
義人を殺してしまうと最後の審判が前倒しになってサタンは消滅するからだ。
義人は目に見えない天の主を信じるから、目に見えない自然権を信じないで目に見える憲法の条文を信じる人を、憲法改正で徴兵で無駄死にさせたり、妙な液体で毒殺する。

最後の審判というけど、新共同訳だと最後の裁きになっている。
サタンが先送りにしたいものだ。

最後の裁き
わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。
わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

ヨハネ黙示録 20章11節から15節 新共同訳

3,余談
正社員は解雇できるという話。
大企業の社長は世間の評判を気にするから解雇できないだけ。
中小企業は簡単に正社員を解雇している。
こういう何の罰則もないのに評判を気にして自己犠牲する。
近所の評判を気にして、行く義務のない徴兵に行く。実際、赤紙なんて、無視すればいいんだけどな。もしくは、裁判で自然権を討論すれば、10年20年はかかるから戦争は終わる。
ネットでも、徴兵を無視できないとか完全に間違った理屈を書き込む奴がいる。
徴兵を無視したら罰則があると洗脳しているのかも。
権力者側の工作員が人々を洗脳しているのかもしれないな。
徴兵に応じなくても、何の罰則もない。
罰則を付けるなら、最高裁まで自然権を争えばいい。弁護士なんか要らない。この程度は、自然権を勉強しながらでもできる。勉強する時間は、裁判をやりながら、10年でも20年でもある。
ホッブズ・ロック・ルソーの著書でも片手に最高裁で争えばいい。
徴兵する方も、そこまでしてまでその個人を徴兵しようなんて思わない。
実際に裁判で徴兵できたとしても、そんな人間を兵士として信用できるかと言ったら、無理だからな。いつ反逆して銃を乱射してくるか判らない。自然権で抵抗権を主張しているからだ。
自分の部下や同僚が、いつ銃を乱射するか判らないなら、まともに戦えるか、という話だ。
誤射に見せかけて殺しに来るかもしれないと疑いながら、まともに戦争や訓練ができるか、という話だ。
近所の評判で精神的に思考停止にして弾除けに使う程度なんだからな。
せいぜい、近所の評判ぐらいだ。

4,寝て見る夢
添という名の子供たちの兄貴分が出てきた。自分とはあまり関係性はない。
いびつな日本地図が出てきた。

能力バトルみたいなのが出てきた。
半分豚人間みたいな悪魔崇拝者と、人肉生け贄の人間たちが、それぞれ30人ずつ。
何かの能力で全員が細切れになったけど、豚人間はホログラムみたいに元に戻った。

そういえば、サタニズムの集会をやっている連中がホログラムの可能性を思いついた。
能力バトルの変な夢を見て、ようやく気が付いたからな。
ホログラムでなければ、ゴム人間か、クローンか、ただのクライシスアクターか。
そこに居る連中を片っ端から顔を引っ張ってみないと判らないからな。
骨から肉が剥がれるぐらいの力で思いっきり引っ張るしかない。ロボットかもしれないしな。
そもそも、人肉が本物かどうかなんて、確かめようがないんだよな。
目の前の人間を殺したり、手足を切り取って、触感を何人分か触って覚えないと、確認のしようがない。
そして、人肉パーティーをしているところで実際に触って確かめる必要もある。
そもそも、その目の前の人間が本物かどうかも確認のしようがない。

5,人間の脳は一つの事しか信じられないのかもしれない
目に見えないモノを信じれば、目に見えるモノに洗脳されなくなる。
だけど、目に見えないモノを信じないと、目に見えるモノに洗脳される。
目に見えないモノを信じるという行為を「脳のキャパシティ容量」に入れておかないと、その「脳のキャパシティ容量」が空いている状態になり、簡単に目に見えるモノにその「脳のキャパシティ容量」を洗脳されてしまう。
その「脳のキャパシティ容量」に先に何かの信念を入れておかないと、簡単に洗脳されてしまうのだろう。
実際に、自分も昔から、高校生ぐらいから智仁勇などの目に見えない信念を入れていたら、大学では動物愛護になって妙な液体の薬害を回避して、2021年12月から聖書になった。
脳なのか心なのかは判らない。心のキャパシティ、の方が判りやすいだろうか。
何らかの信念を「心のキャパシティ」に入れておかないと、目に見えるものに「心のキャパシティ」を簡単に侵略されてしまう。
「信仰キャパシティ」だとどうなるかな。
「信仰キャパシティ」に「目に見えないモノを信じる気持ち」を入れておかないと、「目に見える脅し」に屈して「信仰キャパシティ」に入り込み妙な液体の薬害で悲惨な目に遭う。
自分も、高校生の時に智仁勇などの「目に見えない気持ち」を「信仰キャパシティ」に入れていたら、大学生になると「目に見えない気持ち」の動物愛護を「信仰キャパシティ」入れ替えて妙な液体の薬害を回避できて、今は聖書の「目に見えない気持ち」を「信仰キャパシティ」に入れ替えた。
多分、一度でも「目に見えない気持ち」を「信仰キャパシティ」に入れたら、二度と「目に見えるもの」は「信仰キャパシティ」に入ることは無いと思うけどね。
「目に見えるもの」を「信仰キャパシティ」に入れておくと、次から次へと「目に見えるもの」が「信仰キャパシティ」に侵略しようとするよ。
また、侵略しやすくなると思うよ。

この「信仰キャパシティ」に「目に見えないモノを信じる気持ち」を入れている人は、天の主という目に見えない存在を信じる可能性が非常に高いから、サタンも殺せない。
この「信仰キャパシティ」に「目に見えるモノ」を入れている人は、天の主という目に見えない存在を信じる可能性が非常に低いから、サタンは餌食にしてくる。
だから、「信仰キャパシティ」に「目に見えないモノを信じる気持ち」を入れている人が死なないように、人権とか、社会福祉とか、妙な液体の薬害のシステムとか、徴兵制とか作るのがサタンなのである。


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