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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[156]オアシスの国ハミル

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第10節 ハミルのバザールにて

[156] ■1話 遠征37-39日目 オアシスの国ハミル
 ハミルは、水に恵まれ、森に囲まれた過ごしやすそうな土地だった。北に聳える高い山が風を防ぎ、水をもたらす。東西から大勢の人たちが集まって市場バザールを形作っていた。
 ナオトは、このバザールを見て初めて、フヨの入り江でヨーゼフの言っていたことがわかった。バザールでは取引するのではなく、売りたいものの値段を大声で叫ぶのだと、あのときヨーゼフは言った。それは本当だった。店先の人々は、みな、何かの数を大きな声で叫んでいた。
 しかし、このハミルでも、ナオトが探している器は見つからなかった。ナオトは、その代わりに、別の品々をそれこそ運びきれないほど手に入れた。
 バザールに品物を並べる商人たちは、みな、ヨーゼフと同じような険しい顔付きをしていた。
 上から下まで匈奴そのもののエレグゼンがソグド語を口にすると、誰もが驚いた。一方、ナオトは耳で聞いた通りをそのまま口にしている。たぶん、その響きがおかしかったのだろう。どの商人も厳しい表情を崩して笑った。そして、笑った分だけ親切だった。
 必ず、「どこから来た?」と訊かれた。「ソグド語はどこで覚えた?」と問う者もあった。「ハンカの湖」「フヨの入り江」などと応えるのだが、知る者は誰もいない。
 ――まあ、それでいい。
 バザールの喧騒けんそうは驚くべきだった。いろいろな変わった顔貌かおかたちの人々が、売り、買い、交渉し、行きう。バザールを歩いて行くと、角を曲がっても、そのまま真っすぐ行っても、ずっと同じような光景が続く。さまざまな身なりの人たちが同じようにそぞろ歩き、時折り、大声でわめいている。
 そんなふうな人たちをあまりに多く目にしたためだろうか、エレグゼンが、
れらは相当変わって見えるだろうと思っていたが、ここに来るとそうでもないな」
 と、ナオトにささやいた。

 ありとあらゆる商品であふれ返っていた。バザールに運び込んだものはすべて、棚に置き、または床に敷いた織物や叩き布に並べて見せているという印象だった。上から吊り下げている商人もいた。それらの多くが、ナオトにとっては初めて見るものだった。
 エレグゼンが「何々はないか」と訊くと、黙ってそれを指差す。もし手持ちになくとも、「ない」とは決して言わない。「少し待て」と短くソグド語で言い、「どのぐらい待つ」とソグド語で訊き返すと、少し驚いた顔を見せてから笑い、「ほんの少しの間だ」と言って、通りの向こう側に聞き取れない言葉で何とかと声を掛ける。
 すると、本当にわずかの間に目当てのものが目の前に並べられた。エレグゼンが「銀でどれだけだ」とあれこれ交渉して、たいていは思ったよりも安く手に入れた。
「ここなら信用できる」
 ある店の前でエレグゼンが匈奴言葉で言い、他に買うものはないかとナオトを促した。ナオトは、バザールを歩いてみて気になっていたものを次々と口にし、それをエレグゼンが相手にわかるように伝えた。
「待て、待て」
 そう言うとその商人は、手近の煉瓦に細い木炭で書き付けはじめた。エレグゼンが脇からのぞいて、
「いや、小さなものではなく、大きいのを」
 などと口を出す。
「あんた、吾れのソグド語が読めるのか?」
 商人が驚いた様子で言った。
 途中から、エレグゼンの顔付きがいかにも心配そうに変わった。
 ――そんなに持って帰れるものか!

 結局、エレグゼンは、大きなラクダを一頭、買う羽目になった。そして後々まで、
「吾れはこいつの甲高い鳴き声が好かん。馬銜はみの代わりに鼻に木をさした顔も好かん。厄介なものを買った」
 と、ぼやいた。
 こうして、ナオトが欲しいものはすべて、明後日の朝、ここで受け取るということにし、手付けの銀を丸々一袋預けて、その場を去った。
 二晩世話になる宿ブーダルはすぐに決まった。見上げるような高い塀で囲まれていて、馬もラクダもその塀の内に入れて木に繋ぐ。

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